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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ5

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  • 2008年4月1日 - 2008年6月30日の会話分です。

鉄三郎氏留守の件

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4月中旬ごろまで、冠婚葬祭と短期の国内出張が重なり、ウィキで活動できません。いろいろとご心配・御手数をおかけいたしまして、申し訳ありません。なおウィキメールを設定してあります。--鉄三郎 2008年4月2日 (水) 06:22 (UTC)

了承です。非常時には、私の可能な範囲で対応するでしょう。--故城一片之月 2008年4月3日 (木) 10:44 (UTC)

お手数をおかけいたしております。私からのウィキメールは文字化けせずに届いていますでしょうか? --鉄三郎 2008年4月11日 (金) 12:47 (UTC)

鉄三郎さんのメール届いていました。すみません、うっかり見過ごしていたようです。確認のため返信しておきました(文字化け確認のため受信文を添付しました)。私の送信文の文字化け状況も気になります。--故城一片之月 2008年4月11日 (金) 13:42 (UTC)

あなた様からのメールも100パーセント文字化けをしていました。お互いにメールを交換すると、メアドを知ること、知らせることになるので、一般のメールでやりとりすることができるようになります。--鉄三郎 2008年4月11日 (金) 14:16 (UTC)

文字化けしてない英文のメールを頂戴しました。英文以外は文字化けしていませんでした。--鉄三郎 2008年4月12日 (土) 13:02 (UTC)

ウィキメールは、英文のみ文字化けしておりませんでした。和文はすべて文字化けでした。

加藤氏の書誌情報や、調査の顛末については、メールでお知らせします。概略は私の会話ページでお答えします。会話ページですべてを述べると、誰でも閲覧できるため、万一、関係者の目にとまった場合、不快感を持たれる恐れがあるからです。

なお転勤先に赴任する前に、一応の改訂は済ませるつもりです。

それから、ウィキの編集の基本として、誰でも査読できるという条件がありますが、例えば西郷隆盛の銅像や山本五十六の墓地には碑文があり、そこに行けば誰でもその碑文が読めるわけですし、また西郷隆盛の銅像前や山本五十六の墓地には、原則として誰でもいけるわけですから、その碑文は誰でも査読できるという前提で編集を進めますが、ご異議があればご指摘ください。原則として自由に立ち入れない場所の碑文は誰でも査読できないということになると存じます。

--鉄三郎 2008年4月14日 (月) 14:04 (UTC)

  • ウィキメールの件、英数文字のみ有効とのこと確認しました。お手数かけました。ありがとうございます。
  • 碑文の件は史料(資料)としては金石文として広義の史料の扱いと存じますが、これがどの様な状態に置かれているかで、一般に公表された状況かが判断されると思われます。但し、最近のウィキペディア上の議論では一次資料が、刊行物・出版物ではない場合(稀かん本の場合や出版物以外の史料)、信頼できる公刊された閲覧可能な二次資料を求められる傾向があるようです。つまり、Wikipedia:検証可能性において、信用できる第三者情報源になるべく基づくべきとの規定によると思われます。この規定の適用がどの場合・どの程度まで厳格に適用されるかは、正直私にはよく分かりませんので、碑文の内容を解説する公刊物があるなら、その情報を優先的に採用したほうが無難かと私は思います。
  • 三河真木氏の訂正が終了しました。さらに補筆・訂正が必要であるとお考えになれば、お知らせください。つぎに故城さんにメールを書き、その次には、真木定観のページの立ち上げと、真木氏(牧野家重臣)の補筆・訂正(削除が中心となると思います)をしたいと思っています。三河真木氏については、読みやすくしたことと、真木氏の橘姓の根拠、牧定尭の記述を加え、加藤説を削除しましたが、たぶんに裏のアンチョコとして、著作権に反しない範囲で参考にはしました。その結果、かなり欲求不満となってしまう内容となりました。--鉄三郎 2008年4月18日 (金) 14:11 (UTC)

某所での会合はいかがでしたでしょうか。ついに6月1日を迎えましたが、予定の執筆に手がまわっていません。ネットカフェの深夜・早朝パックでも利用して、一度、籠って執筆してから、旅立ちたいと思っていますが、時間が許してくれるかわかりませんが、やるだけやってみます。--鉄三郎 2008年6月2日 (月) 14:41 (UTC)

  • 実は、直前に身内に不祝儀の事があり急遽、会合への参加は辞退致しました。初参加以来初めてのことです。もっとも前の週にくだんの御仁にはお目通りしてお話は伺って居りましたので、お考えや近々の予定は存じています。
さて、鉄三郎さんにおかれては真木(槇)氏関係の記事の整備・まとめに力のこもるところとお察し致します。しかし、荒らし編集の危機はこの5月に被害関係者のご努力とJAWP管理者の適切な処置により、当面の危機は回避されたと感じています。よって、万が一に貴方様の予定期間に記事整備が終了せずとも差し迫った支障はないかと思うところです。該当記事のノートに整備を続行する旨を書き残されてもよいかと存じます。真木(槇)氏関係の記事は私のウォッチリストに入っておりますから、荒らしへの監視は私からもしておきます。--故城一片之月 2008年6月3日 (火) 18:01 (UTC)

越後長岡藩

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また質問させて下さい。宜しくお願いします。

柴崎氏は長岡藩で、番頭を勤めています。番頭には一定の筋目が必要とのことですが、柴崎氏は200石以上の家禄を受けたことがないうえ、牛窪以来の家柄でもありません。また諸士由緒記に出ている柴崎氏は、分家筋とみてよいのでしょうか。

玉蔵院はなぜ消滅・廃止されたのでしょうか。玉蔵院町、玉蔵院跡というものが長岡市内にあることは知っています。また玉蔵院の檀家たちはどこに流れてしまったのでしょうか。

家禄は100石と100俵の手取り額は同じだといわれています。それでは50石・50俵取りと、70石・10俵取りとではどちらが格上と見るべきか悩みます。また人扶持は手当てと考えられ、本給と引き離して考えるべきだとの見方もありますが、人扶持のみの手当てで、約100石という家臣もいたようで、このような位置ずけはどうお考えになりますか。(例、高野氏の先祖は、真田伊豆守家臣から移籍して始めは人扶持のみでした)。徳川幕府の臣下たちはすべて表高で軍約が定められたいわれます。旗本には500石・1000俵取りという例もありましたがこのような場合は500石のみに軍役がかかったとみるべきなのでしょうか。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2008年4月8日 (火) 14:36 (UTC)


越後長岡と牧野一族を学ぶ会さんお久しぶりです。あらかじめお断りしておきますが、ご質問についてのお答えは、あくまでもウィキペディアの編集・投稿に関わる場合にかぎりというのが原則ですので、今後は、この点に是非ご配慮を御願いします。(そうでないとブログや掲示板と同じになってしまいますので)。--故城一片之月 2008年4月9日 (水) 12:47 (UTC)

一応、ご質問にお答えしましたが、反応がないので消去しました(編集作業に直接関係しないようなので)。今後はこの様な場合はお答えを遠慮するかもしれません。--故城一片之月 2008年4月12日 (土) 13:54 (UTC)

貴殿の記述を読むと随所に「家臣団化されるのを嫌って」という記述がありますが、歴史知識の乏しい私には意味が解せません。家臣にならなければ、私のように素浪人になるしかないわけですし、江戸初期の時点で、後に郷士という地位が認められるかどうかは、その時点では、わからなかったのではないかと思います。

素人の私には、将軍家に、自分の所領を削ってでも直参として召しだすように推薦を求めている。仙台藩をはじめ外様の大藩にあるように、領地経営については、家老の支配の外におき、場合によっては永代家老より石高を多くするように求めている(長岡藩の先法家は、永代家老より石高は低い)、などが考えに浮かびますが、知恵の足りない者の妄想であるため、ご教示ください。特に先祖代々の土地を離れるのを嫌ってというのは、まだ理解できるのですが、領地替えに随従して、なお家臣団化されるのを嫌ってと言われてしまうと、余計わかりにくくなります。また一般読者も「家臣団化されるのを嫌って」ではわかりにくいと思います。--東海地方の素浪人 2008年6月4日 (水) 17:46 (UTC)

  • 漠然とした御指摘でよく分からないのですが、具体的にどの記事のどの部分を言っておられるのか、詳細情報を下さい。私は先法三家のうち真木(槇)氏と能勢氏は三河時代は自立的要素をもった土豪として城主牧野氏に寄騎となっていたが、幕藩体制移行時には家臣化したと思いますし、かつての由緒・筋目で先法家という家格を付与されたと理解しており、私自身はその線で記述していると思います。もし私があなたの御指摘の通りの記述をしたとすれば記述の誤りとおもわれますが、思い当たりません。--故城一片之月 2008年6月4日 (水) 18:24 (UTC)
  • 三河牧野氏の牧野築意の部分に家臣化するのを嫌ってという記述があります。牧野築意は真木氏や能勢氏と違い出奔したわけではありませんが冷遇されたようですね。いまこのページで話題になっている池田氏は、土豪化していたものではなく、徳川家康の貴家好みで高家衆を作ったのと同じで、牛久保城主牧野氏の下に名門出身者がやってきたので、はじめ客人分に置いたと思いますがご教示下さい。池田氏は本家に付属していれば数千石はもらえたと思います。--東海地方の素浪人 2008年6月5日 (木) 15:48 (UTC)


東海地方の素浪人さんの論点は、当初のものと違ってきていると思います。前記のご質問によれば、

>随所に「家臣団化されるのを嫌って」という記述がありますが、
>特に先祖代々の土地を離れるのを嫌ってというのは、まだ理解できるのですが、領地替えに随従して、なお家臣団化されるのを嫌ってと言われてしまうと、余計わかりにくくなります。
>長岡藩の先法家は、永代家老より石高は低い

などの記述から、長岡藩先法家についてその戦国期から幕藩体制移行期に「家臣団化されるのを嫌って」という説明が、私の記述で随所に見られ、それは分かりづらいというものでした。それゆえに越後長岡藩の家臣団および牛久保六騎等の関係記事の自分の記述に該当個所があるかどうか見直したが発見できないので、あなたに詳細情報をお示し下さるよう御願いした次第です。


  • 三河牧野氏の牧野筑意記述に「西郷家が所替え(下総国生実5千石)になった際、家臣化されるのを嫌い・・・」と確かに似たフレーズがあります。しかし、牧野筑意の孫・弥次兵衛成政は徳川家康に永禄4年の時点で帰属しており、しかも、そもそも三州照山城主であって牛久保城牧野氏の家臣では無いようですし、全く先法家の例とは異なるものです。
つまり、家康の直参身分で八名郡の徳川方国人・西郷氏の幼君(西郷元正嫡子義勝)を後見・与力するよう家康に命じられて付属していたが、西郷義勝は三河竹広合戦に戦死してしまい、成政の嫡子牧野成勝(弥次兵衛)は天正18年西郷家転封の際にこれに同行すると、すでに後見すべき若君を失っていたので、単なる西郷家の家臣になる怖れがあり、その場合徳川家の直参身分ではなく陪臣になりかねないのでそれが不快であったようです。
それで同族のよしみで大胡在城の牧野右馬允に身を寄せたとのことで、牧野右馬允への付属は個人的動機であって徳川家の命令によるものではない。東海地方の素浪人さんの想定する、徳川家からの、付け家老や付け寄騎の例ではないし、先法家の例とも違うのです。
「・・・西郷弾正所替えの節、後見の儀ゆえ附き参るべきのところ、末々家来体の様にもまかりなり申すべきかなと、この段を不快に存じ候。折節、牧野右馬允好身ゆえ手前に引越し・・・(以下略)」(引用→大島信雄・『照山城と牧野氏(下)』東海日日新聞・平成11年12月21日(火)紙面掲載の特集記事『越後長岡と東三河』より)


  • 池田氏の話題はここの見出しのものではなく、この次の次の見出しの北州斎娯楽さんの話題の筈ですが。下記に既に示された、私の手持ち資料の範囲では池田小左衛門正近の出自は『諸士由緒記』の池田恒興弟で永禄年中に牧野家に罷り越したという伝承以外は私にはわかりません。--故城一片之月 2008年6月5日 (木) 18:19 (UTC)

ご教示、誠にありがとうごじました。私は御三家の付家老くらいは少し知っていたのですが、つい最近まで、家臣になる道を蹴れば、浪人になるか、将軍家召しだし以外しかないのではないかと思っていました。

また敵対して一戦を交えた牧野右馬允に同族のよしみで、身を寄せたというのは不可解で納得がいきませんが、それが事実なら、どうしようもないですね。

--東海地方の素浪人 2008年6月6日 (金) 16:49 (UTC)

お礼

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改名でアドバイスいただきまして、ありがとうございました。

牧野氏に詳しいかたのようですが、三河国田原聞書には、戸田一西は牧野新次郎の男子であったことが書かれていますが、敵対関係にあった戸田氏にこのようなことがあったとは驚きでした。--東海地方の素浪人 2008年4月8日 (火) 16:47 (UTC)


いいえ、どういたしまして。今後もよろしくです。ご活躍に期待しております。

  • 戸田左門の系統はたしかにその様な説が古くからあり、『今橋物語』・『牛久保密談記』にも吉田城落城のおりに牧野新三郎という者は生き延びて赤岩の法言寺(現在の豊橋市の赤岩寺)に逃れ、後に戸田家を嗣いだと記しています。この牧野新三郎は実名・牧野成村(新三・新蔵左衛門尉)で牧野古白弟とされる人と『牧野系図』等の長岡藩主牧野家の関係文書にあります。また、戸田家(『豊橋市史』では多米戸田氏または赤岩戸田氏)を嗣いだのは、成村の子・成宗(新二郎)とされますが、この人もしくはその男子が戸田一西であるかは定かではありません。ただ、私見では数度にわたりこの戸田氏と牧野氏は養子や婚姻などの姻戚関係が有ったとおもわれ、戸田左門の系統が美濃大垣藩主になって以降も長岡牧野家とは近縁であり長岡初代藩主の牧野忠成長女は大垣戸田氏の正室になり、長岡藩士の子息が大垣藩士に仕官するケースもありました。
したがって、いまページ:牧野成定#家族で戸田一西を成定の子とあるのは、上記の流れから誤りの可能性が高い(新次郎は似た通称だが、実名が違う)と思います。--故城一片之月 2008年4月9日 (水) 13:20 (UTC)

越後長岡藩池田氏の件

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越後長岡藩家臣団について、お詳しいのでおたずねします。 家臣団に池田氏がありますが、この情報の出典等がありましたら、差し支えない範囲で教えてください。 池田氏は2代目が減知された後、殉死し、後継が無く、一端改易とされ、その再興されたとありますが、減知の理由、後継を置かなかった理由、一度改易された後の再興の理由など、分かりましたら、お教え下さい。 また、以下はウィキペディアの範囲を超えるかもしれませんが、可能であれば教えてください。  ・4代目以降の一族について、幕末・明治などの情報がありましたら、教えてください。  ・祖先が池田恒興の弟と書かれていますが、この池田氏の家紋について分かりましたら、教えてください。--北州斎娯楽


北州斎娯楽さんへ。

ご質問へお答えする前に申し上げますが、越後長岡藩・越後長岡藩の家臣団について、勿論興味はありますが、私の調べたこと、ウィキペディアに寄稿した分についてはお答えできるとおもいますが、全てについて詳しい訳ではありませんからお答えできないこともあることを了承下さい。
さて、越後長岡藩家臣団の池田氏についての記事は、2006年7月23日 (日) 17:26 に利用者:219.120.30.142さんの投稿によるもので、私は関与していませんが、この池田氏についての資料は、私の手持ち資料では、
  • 『長岡藩政史料集(2)-家中編-/長岡市史双書 №15』(1991年,長岡市発行)に所収の「諸士由緒記」に記述された出自と初期・数代の履歴、
  • 『長岡藩政史料集(6)-長岡藩の家臣団-/長岡市史双書 №41』(2002年,長岡市発行)に所収の同藩の各時代分限帳で池田氏の知行高・役職の変遷の情報を知ることができます。
  • また、今泉省三著,『長岡の歴史 第1巻』(1968年,野島出版)も参考図書として有効です。


これらの資料によって、今あらためて見直しますとウィキペディアの該当記事には、重大な誤謬を含んだ独自見解と思われる部分が存在します。
  1. 池田氏は池田恒興弟の正近が「牛久保牧野氏の寄騎になった」は『諸士由緒記』の「永禄年中に、牧野家に罷り越し客人の扱いをうけた」との記述内容から「牛久保牧野氏に与力した」の誤りと考えられ、織田家などから派遣の寄騎の武将だったかは不明確である(当時牧野家は今川方であって池田氏は対立する織田家に所属)。
  2. 富永口戦功(1561年)の池田小左衛門(正近、成恒は誤り)が明暦2年(1656年)に殉死した内容は95年間の時間的隔たりから同一人物の経歴ではないことが明白、「諸士由緒記」もそうは書いていない(殉死したのは正近の孫・成直)。
  3. 池田氏の改易→復活については私の手持ち資料に一切記述はない。記事本文も「・・・推察される」とあり、寄稿者の独自見解の可能性がある。「延宝分限帳」(1680年頃成立)には稲垣平助組所属で知行150石であった池田小左衛門は「元禄分限帳」(1689年成立)には名前の記載が無いことを根拠としているようだが、当主死去の際に嫡子が登城・御目見得の年齢に達してなければ分限帳に記載されない可能性もあり、直ちに無嗣改易と判断する理由にならない。およそ18年後の「寶永分限帳」(1707年成立)には元の稲垣平助組に200石(50石増知)で普通に記載されており、もし無嗣改易をうけたのであれば元の知行高・所属以上での復活はかなり難しいはずだが、何らかの理由の記録があってよさそうだが、上記資料には何の記述もない。
  4. 池田氏は「藩内の大族・着座家などにはならなかった」とあるが、寛永以来、各代で奉行職を歴任し、文化・嘉永の頃には中老職にも就任しており、評定衆に名を列ね、年頭お引き渡し着座も許される資格であった。
以上のような、資料とウィキペディア記事との相違が指摘されます(記事の大幅改訂が必要です)。
幕末・明治以後の動向は私は詳しくありません。上記資料『長岡藩政史料集(6)-長岡藩の家臣団-/長岡市史双書 №41』に明治2年の「長岡藩士族総名順」に九等藩士80石・池田志津麿とその嫡子とおもわれる池田九十郎が見えますが、池田九十郎は明治10年の西南戦争のおり、明治政府の警視庁抜刀隊に参加して壮烈な戦死をしたと長岡市の蒼柴神社では伝えられています。そのくらいです。--故城一片之月 2008年5月11日 (日) 08:21 (UTC)


故城一片之月さん 北州斎娯楽です。「池田氏の件」のご訂正とご返事に感謝しています。別の箇所にお礼を書いたのですが、不慣れなために、間違ったようで、改めてお礼申し上げます。訂正版とノートの記事で、先の質問については概ね納得いたしました。2代成興・3代成直が牧野家若君光成公の守り役・養育係であって、大変忠義な人物であったことが分かりました。ただし、その家系に突然100石の減知が下され、如何に忠節であったとはいえ、まだ、幼い忠盛を補佐することなく、たっての願いで、殉死を願いで、さらに、家督相続を望んで放棄するなど、余程の大事に成直は遭遇したと思われます。その真相が何であったかは、私個人としては大変興味がありますが、歴史の理解の上では重要とは思われませんので、これ以上、この話は終わらせるべきと思いますが、全くの仮説として、以下のことは考えられませんでしょうか。「仮説」成直には長男某がいた。光成公死後に現れた忠盛君排斥の策動に、池田父子は大変な危機感を感じた。家老牧野・稲垣氏は強力ではあったけれど、対抗勢力にも又、強力な人物がいた。忠盛君の危機を感じた池田某はついに、その強力な対抗人物を誅殺し、その勢いで脱藩した。父子は藩の危機を救うために、家の廃絶を覚悟した。しかし、懲罰としては減知100石にとどめ置かれ、望外の寛大な処置を頂いた。たとえ奸臣であったとしても重職を誅殺した罪は、あがなわねばならない。成直の気持はこのときすでに殉死と家系廃絶を決めていた。すべてを白紙に戻し、その後のことはすべて、若殿と家老にゆだねた。そして、幸いにもその望みは家系再興として成就され、子孫は藩のために立派な働きをなすことができた。「藩と主君に忠義である。」長岡藩武士として、成直は殉死したのではないか。  以上が私の稚拙な仮説です。 お笑い下さい。--北州斎娯楽


・故城一片之月さん 稚拙な仮説をお読みいただき、ありがとうございます。何の根拠もなく、いささか乱暴な仮説と思っています。ただ、成直の殉死には家の安泰をはかる以上の何か、もっと強い意志が働いているように感じられ、長岡武士の気骨と重ねてみたわけです。巷の書物には、寛永の時期に、光成公の死に加えて、主君忠成公の弟秀成公の暗殺、そのしばらく前には光成公の弟朝成君の暗殺があったと書かれています。何か牧野家を襲う黒い影が動いていたような気がして、それが後の相続争いに引き継がれたかもしれないなど、妄想をたくましくしたわけです。根拠のない話ですので、ご勘弁下さい。--北州斎娯楽

  • どういたしまして。個人でいろんな角度から歴史を考察することは歴史を身近なものとするでしょう。むろん、ウィキペディアの編集からは離れてしまいますので、もし、北州斎娯楽さんのご興味を更に追求されたければ関係の郷土史研究会に所属するのも一法です。貴方の例示された書物の著者は稲川明雄先生だと思いますが、長岡郷土史研究会の世話役を長く務められ、また最近に長岡市立中央図書館長を引退されて今は長岡市の河井継之助記念館の館長をなさっています。この稲川先生か、長岡市の文書資料室に連絡されれば長岡郷土史研究会を紹介していただけるでしょう。連絡先はネット検索すればすぐ判るでしょう。--故城一片之月 2008年5月15日 (木) 15:00 (UTC)

*故城一片之月さん いろいろと教えていただき、有難うございます。ご推察の通り、稲川明雄先生の書物を読ませていただきました。 おっしゃるように、一度長岡文書資料室へおたずねしてみます。私のような素人が、郷土史研究会に入るのは身をわきまえないことと思いますが、おたずねだけでもと思います。いろいろと、有難うございました。--北州斎娯楽

*故城一片之月さん 北州斎娯楽です。「池田氏の件」では、ご教示有難うございました。教えていただきました資料を、ざっと読みましたが、いろいろキーポイントになるような発見もありまして、今や私のストーリーも完結に向かいつつあります。ただ、もう一つだけ、教えていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。それは、「諸士由緒記」は各家から提出された「家譜」に基づくとありますが、そうであれば「家譜」を見つけたとしても、「由緒記」以上の詳細、もしくこれに反するようなことは書かれていないと考えられますでしょうか。もちろん、ケースバイケースでしょうが、一般論としては、そのように理解してよろしいでしょうね。というわけで、私のストーリーは完全には完結いたしませんが、これ以上の探索は断念します。また、この私的なストーリーは「長岡の歴史」に貴重であるとも思えませんので、公表は差し控えます。ただ、初代正近が織田の敵方とも思われる牧野家に「まかり越し」、食客となったこと。成直が殉死に際して、家禄の返上を願い出たこと、これらは池田氏の奇異な振る舞いと、とられますが、推論の仕方によれば、ごく自然な理由をつけることが可能とも思われることを申し上げ、ほんの少し、弁護させていただきました。いろいろと、有難うございました。--北州斎娯楽

  • 家譜は各家それぞれのものですし、その後の各代について書き足されて行くものですからその過程で過去分に追加情報を加える場合もあるでしょうし、逆に過去分には全く手を加えずそのままの場合もあるでしょう。それぞれの家の考え方で差が有るでしょう。よって同じ歴史的出来事を共有する関係者も代を経るとそれぞれ内容に差が生じていることも考えられます。『諸士由緒記』も著者・竹垣権六が嘉永3年に編纂した時点の情報ですから、後代の家譜とは差が生じている可能性が無いとは言えません。--故城一片之月 2008年6月3日 (火) 18:20 (UTC)

史料価値の是非

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東京大学史料編纂所の所蔵史料目録データベース、続群書類従の宗長日記(宗長)の巻末には、寛政12年、申(陰暦7月?)とあり、幕末に編纂されたものであることがわかります。イメージ→0210をクリック。

宗長日記は、徳川実紀の出典一覧表にもその名前は見えず、前々からおかしいと感じていました。

宗長日記の史料価値には疑問があります。

また、貴殿は、神社やお寺の古い棟札、社伝・寺伝の類い、書状、家系図(人物名鑑に記載のわずかなエピソード)、地誌の断片的な情報を拾い集めてツギハギして、歴史としていますが、

歴史とは連続したものであり、歴史書に拠るべきものであり、徳川実紀の出典一覧表には、神社やお寺の古い棟札、社伝・寺伝の類い、書状などは引用されていません。

幕末の歴史書編纂においても、善本を底本とし、校正するスタイルで出典・編纂年も明記しています。

手取川合戦においては、上杉謙信の書状1通のみで、架空説が有力です。

津軽為信の関ヶ原参戦も、江戸時代に商人から購入した書状1通のみで疑問とされています。

書状の史料価値が、歴史書を上回ることはないでしょう。

山本勘助の書状の件でも、すでに武功雑記に軍師山本はいないが、山本という山県の家臣はおり、口才あるもので、武田の旧臣に聞き取り調査をしたと、平戸藩主松浦が述べています。軍鑑は偽書と断定。

牛窪記、牛窪密談記の類いには、明らかな誤りが見えるため、支持しているのは、一部に留まるのでは?--Fujisannfujiasan 2008年5月26日 (月) 10:36 (UTC)


Fujisannfujiasanさんへ

  • 史料価値の是非とは大層な見出しですが、あなたは大学の教員あるいは歴史学の研究者でしょうか?史料の価値を論じるにしては、誤りがあるようですが。利用者:オタスケマン氏あるいは利用者:時空の旅人氏でしょうか?
貴方が示した東大史料編纂所の資料目録は私も確認しました。『宗長日記』のことですよね。私がウィキペディアの記事編集のさい出典にした史料は『宗長日記』ではなく、『谷宗牧紀行』ですよ。吉田城や牧野信成(今橋城主)の記事で利用者:Saer0123氏(貴方では?)が『宗長日記』と書いているがこれは『宗長手記』の誤りでしょう。『宗長日記』は柴屋軒宗長が晩年の享禄3年(1530年)から享禄4年(1531年)に駿河国丸子の草庵「柴屋庵(軒)」で過ごした日々を日記に綴ったもの。一方『宗長手記』は大永年間の宗長の紀行文+連歌を綴ったもので、いずれも江戸時代の編纂であるわけが無い。
指摘の『続群書類従』巻五二三(東大史料編纂所の目次は巻522(下)となっているが、上段と重複の入力ミスと思われる。イメージの0010tifをクリックすると、「続群書類従 第五百廿三之内 日記部二 宗長日記」とある、同じく0210tifをクリックすると「寛政十二申年 昌成 花押」とあるが、寛政12年(1800年)は江戸時代であり、しかも幕末ではない(幕末は諸説はあろうが、通常は嘉永6年(1853年)ペリーが浦賀来航してから、徳川慶喜が大政奉還した慶応3年(1867年)までを指す)。この「寛政十二申年 昌成 花押」はそのページをさかのぼって閲覧すれば判るように、底本の『宗長手記』を読んで寄せた解説文(0191tif-0210tif)を書いた日付であり、「昌成」はその解説を書いた人名である。内容はこの書が宗長古人(故人の意)日記であって享禄三年・四年の事を記したこと、大永七年八十歳の時までの事は「手記」(『宗長手記』をさす)という文に見えること、住居の草庵を柴屋と呼ぶ謂われのこと、天文13年(1544年)に宗長13回忌であったことから、宗長の没年が享禄5年3月6日と比定したことなどが述べられている。

>歴史とは連続したものであり、歴史書に拠るべきもの・・・

  • これは、誰のお考えでしょう?あなた個人ですか?だれか著名な歴史専門家が言っているのでしょうか?教えて下さい。
歴史考証は史料によって裏付けられる。書状や古記録・古棟札、木簡、その他金石文も史料です。史料に裏付けられない歴史本があるのでしょうか?

>宗長日記は、徳川実紀の出典一覧表にもその名前は見えず

  • 当たり前と思いませんか?徳川家を中心とした歴史を述べる本に、今川氏親に世話になっていた「柴屋軒宗長」の『宗長手記』(『宗長日記』ではない)が引用されないのは。
織田信長を知りたければ、『徳川実記』ではなく、『信長公記』・『信長記』を主史料とすべきであり、同様に三河在住期の牧野氏については『牛窪記』・『牛窪密談記』など牧野氏を中心に書かれた史料を主に用いる。これはごく自然な史料の用い方であるはずです。

>牛窪記、牛窪密談記の類いには、明らかな誤りが見えるため、支持しているのは、一部に留まるのでは?

  • 完璧な史料など、むしろ珍しいのでは?今ほど通信・記録手段の発達しない大昔には、誤報やそれによる誤解も多々あったでしょうし、写真も複写機もないのですから、筆写・写本が文書を保存・伝える手段です。であれば、誤写も発生するわけで、完璧にはいかない。後世の研究者はこれらの史料を比較考量して、事実と誤りを弁別する。
あるひとつの史料に部分的な誤りがあったとしても、全体が否定されるわけではない。史料とは用い方によって評価のされ方・重要度は変化するものであると思いますが?中国地方の大名毛利氏を研究するのに奥州伊達氏の史料を主史料として用いますか?室町幕府の研究をするのに江戸幕府の史料を主史料にしますか?毛利氏には毛利家の記録を主として、その他の史料を従として補うのが基本とは思いませんか?--故城一片之月 2008年5月27日 (火) 17:56 (UTC)

宗長手記、宗長日記とも群書類従収録のモノしか存在しません。幕末・明治に初登場したモノです。

宗長手記の尾張、三河、駿河の逗留の記述はいくつかおかしい点がある。

参河刈屋→大久保の三河物語、今川氏真書状には、三河、三州であり、参河という表記は意図的に古いことを装おう意図?

土羅一向堂→三河物語では、土ろ。一向堂という表現も変で、三河物語では、寺内、一騎。

牧野田三→牛窪記と同じ表記。大久保の三河物語では伝蔵。

府中→江戸幕府の府中宿?。大久保の三河物語では駿付。海道記では手越。北条氏照書状(上杉家文書)では苻中。

1522(大永2)年 此国、折ふし俄に牟楯する事有りて、矢作八橋をばえ渡らず。舟にて、同国水野和泉守館、苅屋一宿。

1524(大永4)年 亀山より駿河へ 六月七日、尾張知多郡大野の旅宿。八日に参川苅屋といふ所、水野和泉守宿所一宿。

大永2年では、苅屋一宿と断定してるのに。大永4年では、参川苅屋といふ所と、伝聞調の表現になっている。 同一人物が書いたとは思えない表現のちがい。水野和泉守だけでは、特定困難。

旅宿、逗留、など、松尾芭蕉の奥の細道(元禄)に出てくるような用語。十六夜日記ではとどまる。

宗長手記が、同時代史料とは到底思えないし、江戸時代の史料に引用されている事例もない。

宗長手記に書いてある程度のことは、他の史料でも確認できますし。

今川氏、牧野氏の通史がないからといって、断片的なモノを拾い上げてツギハギすると、やはりムリがある。--Fujisannfujiasan 2008年5月27日 (火) 21:40 (UTC)


再検索のすすめ

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Fujisannfujiasanさん、あなたは『宗長日記』および『宗長手記』に関する検索が不充分のようです。 上記史料は『続群書類従』所収のものしかないと断言されてますが、そんなことは無いです。折角、東大史料編纂所を検索したのですから、じっくり検索してそれから考えても遅くはないですよ。

①東京大学史料編纂所 所蔵史料目録データベース・・・『宗長日記』検索の結果№2の方 [1]

②東京大学付属図書館蔵書目録データベース・・・『宗長日記』で検索の結果 [2]

①②とも同じ岩波文庫に所収。但し書誌情報解説は②の方が詳しい(下記)。

底本: 宗長手記上・下: 彰考館蔵『宗長記』乾坤二冊本. 宗長日記: 宮内庁書陵部蔵『柴屋軒宗長日記』 (岩波文庫シリ-ズ 黄(30)-123-1 1975年4月発行)

  • つまり、岩波文庫版は『宗長手記』と『宗長日記』の両方を所収。その底本(原書)が、彰考館(水戸市にある、水戸徳川家の史料を保管・展示・研究する施設)と宮内庁書陵部(旧江戸城紅葉山文庫所蔵史料を管理)に存在するという情報です。
  • 私はあなたが素朴な疑問を抱くことに対して、私があれこれ批判する立場にないと考えます。あなたが怪しいと思うなら、史料目録や目次だけでなく徹底して史料本文の解読に挑戦してみるのも良いと思います。私は前述の『続群書類従』所収の「宗長日記」の解説部分(数頁分)を急いで斜め読みで読んだが、それでも『近世古文書字典』で変体仮名や難読文字を首っ引きで2時間程度はかかってしまいました。相当の根気も要るし、やはり先学の学者・研究家の方々の解説本や研究書の助けが必要となることを痛感することになるでしょう。個人単独では困難を極め第一に時間がいくらあっても足りない事になると思います。
それでもあなたの熱意が有れば可能かもしれませんが。但し、ウィキペディアは独自研究の場ではないですから、成果は研究サークル・郷土史研究会・自己のブログや自費出版などで公表しましょう。
  • かく言う私も、牧野氏の出自について、四国田口氏説をウィキペディアに記述してますが、これは江戸幕府の公的系譜集である『寛政重修諸家譜』で掲載され、大名・旗本牧野氏の共通の家伝です。しかし、私個人は田口氏起源に疑問を持っているし、別の考えもあるが(穂国造起源説や砥鹿神社神官説とも異なる、私個人の説)、これは独自研究になるのでウィキペディアでは一切記述していませんし、今後もウィキペデイアには書きません。--故城一片之月 2008年5月28日 (水) 13:22 (UTC)

エイプリルフール

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お早う御座います。ウィキ豊です。「Wikiって略すな」は利用者:Monaneko会話 / 投稿記録氏が2007年4月1日 (日)に半分冗談で書かれた単なる悪ふざけであることはご存知ですね。Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンスの2007年の節に載って居る幽霊項目です。初版でも「編集内容の要約」でMonaneko氏は「April Fool. 半分冗談」と書いています。故城一片之月さんがユーモアのセンスが有るのか、かつがれたのかは知りませんが、少々気になりましたので。--ウィキ豊 2008年6月3日 (火) 23:56 (UTC)

余計なお世話とは思いましたが。ただ、「Wikiって略すな」はウィキペディアの「基本方針とガイドライン」ではなく一種の悪ふざけですので気になりまして。--ウィキ豊 2008年6月4日 (水) 23:46 (UTC)


牧野氏に関すること

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  • 牧野成定

翌永禄9年(1566年)5月、西三河岡崎城にて成定は家康に謁見を受け和睦に漕ぎ着けた。これにより牛久保牧野氏は松平家康に帰属、家康の命により領治・家臣の掌握は稲垣・山本等の重臣5-6名で行うことになり、その後の成定は病身のため牛久保城内にて蟄居の態であったという。 [8] [9]

という記述についてです。この「蟄居の態」とは、病身のため、動けず、部屋の外に出れずに蟄居も同じ意味。それとも徳川慶喜が寛永寺で謹慎したのと同じように、蟄居に近い形となり、家臣や寄騎たちが、岡崎に交渉に行ったという意味。それとも今川氏に固執したため家臣に棚上げされたという意味。ニュアンス的にどのようなものなのかよくわからないのです。

またこのウィキペディアでは他にあまり例がないほど、牧野氏の重臣に過ぎない真木氏・槇氏の記述が詳細ですが、家康に岡崎で謁見しながら、その後は謁見資格がないとういのも不思議だと思います。

これらは、歴史にさして詳しくない私の素朴な疑問なので、記事を批判していると、とらないで下さい。

--東海地方の素浪人 2008年6月10日 (火) 18:25 (UTC)


牧野成定の蟄居の理由(利用者:東海地方の素浪人さんへ)

  • 病身であった。・・・『牛窪記』によれば、「永禄九丙寅年ノ秋ヨリ牧野民部丞入道病気シキリニテ、・・・同十月廿三日遠行シ玉フ。」また、「密志ヲ通ゼシ故ニ、コノ外ニモ病気トイヒテマジワリヲヤメ・・・」と死去までの間、蟄居をしめす記述がある。『牛窪密談記』では「牧野右馬允成守(民部丞トモ号ス)所労ノ儀ニテ、蟄居養生ヲトクルトイヘトモ相叶ハズ、永禄九寅之十月廿三日病死。」と所労(煩い・病気のこと)で蟄居養生していたと記述。永禄9年5月19日付の牧野成定宛の徳川家康判物には「其の方、煩い有るに於いては、切々出仕無きと雖も無沙汰に有るまじき事」と家康も成定の病状に配慮し、病で出仕できなくとも書状や代理人等でよいから無沙汰にならないよう求めている。
なお、引用文中の牧野成守は牧野成定の前名とされるが、一方成守は牧野貞成(成定養父)とする説もあり解りづらい。しかし、『牧野家譜』や上記の家康判物で永禄9年10月23日死去した人物が成定であるのは確実のため、永禄9年に牛久保城で蟄居していたのはやはり成定である。
  • また、徳川家との和睦交渉は永禄8年3月より牛久保寄騎の面々が行った記述が『牛窪記』にあり、しかしその一方で『牧野家譜』は今川家への「旧志ノ義理」を重んじる成定が永禄9年春のぎりぎりまで今川氏真へ「後詰め」(援軍)の要請もしていたことを記述しており、氏真の「無勢なれば面目なく、後詰めは成り難し」との返事を受けて今川氏に訣別し、5月に岡崎の家康に面閲を受けて和睦・徳川方帰属を許されている。つまり、永禄8年春より翌9年春までのほぼ一年間は徳川方・今川方への両面外交をしており、態度決定まで牧野成定は牛久保城内に籠居していたらしい(実際、この間の成定出陣の記録は知られていないし、この頃に宿老・稲垣重宗に租税徴収や扶持について一切を任せる内容の手紙を書いている)。
  • 結局、今川家(故天沢寺殿=今川義元)の旧恩への義理を重んじ、永禄4年より7年に至るまで今川方の先鋒として絶えず戦陣の陣頭に立って連戦し、これに疲れ果てて発病しても、簡単に徳川方に寝返るわけにもゆかず、牛久保城内に蟄居の形でなお今川家への義理だてを示していたと思われます(実際、上記の引用資料はその様に記述している)。よって、徳川方への交渉は稲垣・山本両氏を中心として牛久保年寄がおこない、家康への対面をしているが、真木氏についてはその形跡がなく、能勢氏は岡崎へ出府したとされるが詳細が知られていません。真木・能勢の両寄騎は今川方交渉窓口であったかも知れませんがその記録は未見です(『明智記』によると能勢丹波守は明智光秀等と共に永禄9年冬越前敦賀城にて足利義昭に面会し公方衆となった内容もあり、牛久保を退去していた可能性がある。その後、能勢丹波守の嫡男・能勢惣左衛門は駿河大納言徳川忠長に仕官したとの記述が長岡藩関係文書『御邑古風談』にある)。稲垣・山本・岩瀬の3寄騎はいずれも永禄以後より家康の直属となり、天正年間は旗本身分であった記録があるのです。

たいへん噛み砕いた説明でよくわかりました。誠にありがとうございます。

ところで、岩瀬氏に関する記述はうぃきぺでぃあ内に、あることはあるのですが、牧野氏や真木氏とは比較になりません。

牛久保城の内堀内に屋敷を構えていた武家に関する記述は、岩瀬林之助以外は、どこかのウィキペディアのページで説明があります。岩瀬林之助は、牛窪記と牛久保城古図以外には、まったく形跡がないのでしょうか。私はごく最近、牛窪記なるものを読みましたが、難解でダメでした。

牧野氏に随従はしていないし、幕臣にもなっていない。小田原(大久保)藩士にもなっていない。郷士ということでもない。推定とか推察とかいうような形もできないほど情報がないのでしょうかね。岩瀬林之助の説明が入れば、内堀内の武家の説明が揃いますね。--東海地方の素浪人 2008年6月12日 (木) 06:26 (UTC)


残念ながら、岩瀬林之助に関するその他の詳細情報・出典資料等はわたしの管見に有りませんので、説明は出来かねますがあしからず。--故城一片之月 2008年6月12日 (木) 10:29 (UTC)  わかりました。回答ありがとうございます。--東海地方の素浪人 2008年6月13日 (金) 02:49 (UTC)

返信ありがとうございます

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返信ありがとうございました。記事作成の是非などについては、残念ながら知識がついていきません。--Ks aka 98 2008年6月19日 (木) 16:48 (UTC)