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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ4

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  • 2008年2月1日 - 2008年3月31日の会話分です。

越後長岡藩の家臣団の真木氏について

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越後長岡藩の家臣団の真木氏についてですが、真木三郎左衛星門は、父と出奔していなかったのは確実でしょうか? 真木小太輔の記事の説明との整合性もあり、どのようにお考えでしょうか? 私の印象としては父と共に出奔していなかったように思いますが決め手がないのです。

温古之栞は、後世に三国志の説話に真似て作ったものだと思いますが、真木氏は、真木清十郎が居場所がなくなって出奔したから、減石されたのか、それとも減石または、事実上、惣領権を剥奪されて一族を直参化されそうになったから出奔したものとお考えになりますか? 鶏が先か玉子が先かの議論に似ていると思いますがいかがでしょうか?また真木清十郎は、藩主・牧野氏が徳川直参に取立ててもらえるよう口効きでも期待していたのでしょうか?--鉄三郎 2008年2月5日 (火) 14:23 (UTC)

私のノートに、故城一片之月 さんからの質問の回答を書きました--鉄三郎 2008年2月6日 (水) 06:55 (UTC)


真木(槇)氏の経歴について

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鉄三郎さんへ、

これは私個人の考察ですのでウィキペディアの記事として記述可能かは注意が必要です。

  • 真木重清が兵庫助重信の家督を継ぎ、真木家惣領分となったのであれば真木氏を代表して牛久保寄騎(牛久保六騎)になったと考えるのは自然であり、僅か4年後の氏真文書にある真木越中守とは重清と考えても良さそうです。
  • 一方、真木越中守と推定される真木清十郎重清は永禄4年(1561年)の氏真感状の時の人ですから、57年後にあたる元和4年(1618年)長岡入りの真木清十郎とは同一人物ではなさそうで、その子供とみるのが自然ではないでしょうか。
  • 「諸士由緒記」にいう越中守(重清)嫡子の真木小太夫とは重基である可能性は高い。越中守の御家退散後に弟が減石ながら1700石で相続を許されたとみるべきです。しかし、大胡もしくは長峰在城期に病死したので、元和四年引越御人数帳には名が無い(年齢も高いはず)。本来の越中守重清の実子と思しき真木清十郎(某)は長岡入りはしたが、御組入り・御番入りの記録がない。父の出奔の罪に連座して不遇だったのでしょう。「寛永分限帳」では真木五郎八の名も見えなくなっています。(この項→「諸士由緒記」の真木越中守子孫・真木勘八での説明にほぼ沿ったものです。)
  • これとは対照的に台頭してきたのが槇(真木)三郎左衛門家。永禄の富永口戦功の真木三郎左衛門は当然に新助重勝の先代でしょう(「諸士由緒記」の槇三郎左衛門の項)。長岡入りまで健在ならば御人数帳の三郎左衛門は確実に70歳以上の高齢者です(新助は20歳)。しかし、代替わりしていれば壮年期のはずですが、長岡入りの20年後の「寛永分限帳」(寛永15年(1638年))に槇新助(40歳)は居ても三郎左衛門は居ない。既に先代は死去していたのでしょう。
  • この様に考えると、真木越中守直系は長岡入りは果たしたが、五郎八(500石)以後は先細り家格維持が困難となったと考えられ、真木清十郎重清の実子である新助重勝が戦功もある槇三郎左衛門家に養子入りして、新助自身の大坂の陣参加もあり、戦功実績・血統の両面で真木(槇)一族を代表する家格になっていったのでしょう。


むろん、鉄三郎さんはほぼ同じ考えで記事をお書きになったのだと思います。ただ、これを典拠を挙げながら掲載可能な形で記述するのは私には困難が感じられ殆ど真木(槇)氏関係は手を着けず、関係史料をお持ちあるいはご存じの鉄三郎さん牧野幕府さんにお任せしていたのです。--故城一片之月 2008年2月6日 (水) 17:21 (UTC)


この議論をまともに典拠をあげながら議論したら、大論文となり、投稿するのに数日の時間を要する可能性があるので、まず自説と他説を踏まえて、とりあえずアバウト・気楽に説明させて頂きます。私も断定するだけの心証を持っていない部分が多々あります。

牛窪記に登場する個人名は真木越中守定安・定善・善兵衛・又次郎です。郷土史家某氏(氏名失念)の解説によると、定安を兵庫之助重信、定善を清十郎・善兵衛を小太夫と比定し、又次郎は真木越中守定安の極めて近縁者としていました。これについて故城一片之月のご意見を伺いたいと存じます。

真木越中守定安・定善の比定は、この郷土史家や、故城一片之月さんと同意見です。

問題は善兵衛なのですが、牛窪記を読むと越中守定安から定善・善兵衛の時代に移ったことが漠然とわかります。突然、登場する善兵衛とは、定善の実弟であったのでしょうか? 善兵衛は、鍛冶村古屋敷住人として、定善と連名で二葉松に記載があるほか、牛久保城古図では、単独で屋敷を持っています。

又次郎は、牛久保城の堀の中に屋敷を持っているが、越中は城下に出仕屋敷を持っていません。又次郎の屋敷が出仕屋敷であったのではないかという推定をなさった人もいるようです。

しかし、又次郎が真木越中守定安の惣領や庶子であるとするには、かなり無理があります。又次郎が今川氏の感状の宛先になっておらず、永禄12年に死亡しているからです。

すると又次郎は極めて近縁者と言っても、真木越中守定安の子供ではなさそうです。ほかに極めて近縁者ということにしたければ、定安の末弟あたりに比定するのが妥当だと思います。これを否定すると極めて近縁者ではないということになります。

いまは無き、一本松の真木氏葬地の写真を私はみたことがありますが、いずれも自然石の墓石で、3つの墓石が寄り添うように置かれていました。これを見るとやはり、又次郎は真木越中守定安の極めて近親であるとの思いがしてしまいます。

討ち死にした真木越中守定安の子供は若輩であり、いきなり名実共に真木一族の惣領権を持つのは無理であったので、叔父の善兵衛に後見させる必要があった。そこでそれまで、真木越中守定安だけの記述であったのものに、連名で善兵衛が登場するようになったと推察されるという意見も存在します。この説だと越中守定善と善兵衛が叔父・甥の仲ということになり、兄弟説を否定することになります。

永禄4年に真木清十郎が力戦したことが伝えられているため、永禄4年には10代半ば以上ではあったとは思いますが、この時代は13歳位の初陣は当たり前で、故城一片之月さんの推定より真木清十郎は、かなり若く長岡入封まで代替わりせず一人であるとの見方ができます。

真木系図(東大史料)によると、重信(兵庫之助)→ 重清(清十郎)→ 重勝(初名新助・三郎左衛門・内蔵之助<※内蔵介・内蔵助に非ず>)→ 重明(以下略)となっており、あくまで重信から、重明まで4代となっています。 

次に真木五郎八は、500石であったと諸士由緒記にありますが、別の記録(おそらく一般には査読不可能)によると、五郎八は初名であり、通称は庄左衛門といい200石が加増された700石の家臣(先法家槇氏と同格)にまでなったというものがあります。この記事がもし査読不能で採用できないとしても、分限帳に真木庄左衛門700石(茂と庄を間違い 茂に訂正)とあるは、誰を指すのか想像すれば、容易にたどりつくと思います。出奔しなかった真木氏(小太夫系)1700石は、清十郎系の帰参で家禄の一部を返上したはずですが、真木氏惣領家700石、槇氏惣領家700石として、2系統となったなったものと見るべきではないでしょうか。真木氏惣領家700石は、罪により改易・再興されたことはいうまでもありません。

あとは小諸真木氏の家系をどうみるかです。真木善兵衛の家系とする説、小太夫家系の庶流とする説があります。真木善兵衛と小太夫が同一家系という説もありますので、それであれば悩みが少なくてすみますが、叔父・甥説を否定することになります。

小諸真木氏は、槇内蔵介家から元禄年間頃に養子を迎えて、槇氏を称するなど、先法家の槇氏に取り込まれていったようです。惣領家が小太夫家であれば無理からぬ気もしないではありません。

また一般論として、初名と通称名を混同して使用するところが近世の史料には多くあります。真木越中が通称であったが、初名の清十郎で御引越し御人数帳は書かれ、かなり後世に書かれている温古之栞には、越中で登場する。五郎八も誰が見ても初名であり、ほかに通称があったことは疑いがないということは、ご理解頂けると思います。

どうか故城一片之月さんのご意見をお聞かせください。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 17:47 (UTC)


  • 真木越中守重清(定善?)は討死にではなく会津出奔ですよね? かなり時代がずれますが・・・。
  • 真木越中守の実名について、少しお尋ねします。「牛窪記」・「牛窪密談記」を今、改めて見直してみましたが、越中守を定善・定安と記したくだりがどうしても見当たりません
牧野保成が天文7年に鉄屋大工に与えた証文の連名の宛先に「定安」の名が有りますが(「牛窪記」)、これは鍛冶職人の名と思えます。また、「定善」の方はもちろん、瀬木村(真木村)に古白とともに定善寺を創建したくだりに寺名として記されておりますが「牛窪密談記」、ズバリ越中守の実名としては見当たりません。
私の見落としかも知れませんので、恐縮ですが鉄三郎さんにもご確認のほど御願い致します。私は以前に何か他の文献か書籍でこの定善寺は真木越中守にちなむものとあったように思いますが、実名というより法号であったかもしれません。あまり、寺号に俗名は用いない様な気がします。
真木善兵衛は越中守と並び加判の列に加わるのですから相当の有力者でしょうね。「牛久保城古図」に若宮八幡の「野瀬丹波守殿」屋敷にすぐ隣接して屋敷があることからも判ります。永禄4年の功績を考えれば、兄とは別に取り立てがあっても不思議ではなく、牛久保寄騎の惣領真木家と別に牧野家直臣として取立られたのでしょうか。真木又次郎もまた屋敷の位置(内廓)から考えて、その功績から牧野家の旗本かつ近侍の衆の取立だったのでしょう。信頼度がわかります。
通称-実名の照合は既刊本の『岡崎市史・史料編6』の「真木文書」でなされているものを更に「真木家系図」(東大史料)で確認できたのですから、それで充分で、記事掲載に何ら問題ないでしょう。(兵庫助→重信、清十郎→重清、小太夫→重基)
  • 少し話しが飛びますが、真木氏 (牧野家重臣)の「真木氏惣領家はいずこ」の内容がなにか真木越中守家の惣領の系統がどれかという事と、先法家の格式の家はどちらかという事の2つの異なる論点が混在してしまっているようできになりますが、すっきりしません。また、真木茂左衛門(700石)が真木五郎八と同一人というお話は何かで確認できますか?
  • 記事の主題を整理すると、
真木越中守家の惣領の系統→真木勘八家(大組・100石)家格は下になったが越中守の家筋である。
先法家槙氏→槇内蔵助家(先法家・600-700石)で家格はこちらが上。

が正しい見方と思います(「諸士由緒記」もその様に扱っているはず)。

  • 類例;
牧野弥次兵衛家(元三州照山城主末裔)→牧野十左衛門家(番頭格・200石)。家格は下だが弥次兵衛本家である。
牧野弥次兵衛分家→五家老家・牧野頼母家(1100石)。家格はこちらが上。(これも「諸士由緒記」より)

こんな感じです。--故城一片之月 2008年2月8日 (金) 18:32 (UTC)


真木庄左衛門ですか?どの分限帳でしょう。「寛永分限帳(六組知行并役高帳)」の真木茂左衛門700石ことでしょうか?たしか、ウィキペディアの真木氏 (牧野家重臣)には真木茂左衛門700石は真木五郎八とされてますよね。--故城一片之月 2008年2月8日 (金) 18:54 (UTC)
真木庄左衛門ありますね。「寛永分限帳」の稲垣平助組の七人目に「二百石、真木庄左衛門」と。すなわち、この真木庄左衛門は五郎八の通称であるとのお話ですね。しかし、また同じ分限帳の牧野平左衛門組の三人目に「七百石、真木茂左衛門」もあります。ウィキペディアの記述では茂左衛門が五郎八で七百石どちらが正しいんでしょう?--故城一片之月 2008年2月8日 (金) 19:11 (UTC)

「七百石、真木茂左衛門」を真木五郎八に比定しています。茂と庄を誤りました。

真木越中守家の惣領の系統→真木勘八家(大組・100石)家格は下になったが越中守の家筋である。先法家槙氏→槇内蔵助家(先法家・600-700石)で家格はこちらが上。が正しい見方と思います(「諸士由緒記」もその様に扱っているはず)。については同意。

また真木越中守の名を定善と、明確に特定しているのは、おっしゃるように牛窪記や牛窪密談記ではありません。私が少し錯覚しました。しかし、三河国二葉松では明確に特定していたように思います。「鍛冶村古屋敷 真木越中守定善・同善兵衛」とあります。また太田亮・立命館大学教授の著書2冊にも、真木越中守定善が登場します。

参考

寛永分限 真木庄左衛門200石 槇三左衛門250石 槇新左衛門250石 槇九兵衛200石 真木茂左衛門700石 槇新助600石 槇内蔵介200石

おそらく先法槇氏当主の新助600石 隠居した内蔵介が200石なのでしょう。このとき先法家槇氏の分家として認められていたのは、槇三左衛門家と、槇平兵衛家だけで、槇八右衛門家や槇吉之丞家は、年代的にまだ登場しませんし、その上、禄高が異なります。槇九兵衛は古文書の翻訳者の誤記・誤訳または平兵衛の異称だと思います。また想像ですが槇新左衛門250石は、槇先法家の部屋住み身分の家督相続予定者だと思われます。槇氏は真木家文書などから家督相続前に要職に就任していることが多いからです。

真木庄左衛門200石、真木茂左衛門700石は、真木小太夫の家系であることが想像されます。

真木茂左衛門(700石)が真木五郎八と同一人というお話は何かで確認できますか?とのご質問ですが、これはあらためて検討した結果、ウィキ本文に掲載は無理だと思いました。小諸真木氏系の文書に見ることができます。小諸真木氏系の文書は誰でも査読することができません(一部はできますが、その中に含まれていませんから取り下げます)。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 20:42 (UTC)

社団法人 小諸市荒町和合会では、小諸の古文書を集めて保存しています。和合会所蔵文書としてこれから大きく郷土史に寄与すると思います。まだ閲覧体制が充分ではないようです。--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 21:09 (UTC)

次は私の考えではなく、郷土史家から聞いた話しの要旨です。

真木清十郎の父である兵庫之助が討ち死にしたのは、永禄4年(1561年)です。真木清十郎が永禄4年に戦功記事があるので、これが初陣であったとすれば、およそ数え13歳であった想像できます。長岡入封が1618年ですから、数え70歳に相当します。大胡から出奔したとすれば、数え52歳以降と推定されます。江戸時代であっても生存可能な年代と言えるという主張をされていました。当然、初陣してすぐ戦功というのは無理であるので、プラス何年かはしないといけないとは思います。あるいは父のあだ討ちの戦いと位置づけて、誰かが功名を譲るか、立てやすくしてくれたのかもしれません。そして真木善兵衛は若輩の真木清十郎を補佐して一族の長老として、重きをなしたというものです。戦国時代は分割相続の時代ではないので、兵庫之助の2人の子供に兄弟で分割相続させて、弟も牛久保年寄衆に取り立てるというのは、よほど弟に功名があった場合に限られるはずだとのことでした。だから真木善兵衛を清十郎の叔父と見るべきだという内容でした。

私は話しに無理がありすぎるとは思いますが、考えさせる点もあると感じました。この説の最大の弱点は真木清十郎の生殖能力です。いったい真木清十郎は何歳で父親になったかということです。いくら戦国時代が早婚であっても、少し早すぎます。どうしても強引にこの説にこだわるなら、真木清十郎は小太夫より年下の弟か、それ以外の人物から養子(真木三郎左衛門)を迎えたと想像するしかありません。

故城一片之月さんの言うように、清十郎は襲名で親子で2人いたとするか、兄弟相続があったとみるほうが自然なようには思います。

--鉄三郎 2008年2月8日 (金) 21:40 (UTC)

七百石、真木茂左衛門・二百石、真木庄左衛門はどのような人物とお考えになりますか?

与板真木氏は、与板藩文書・及び与板系の真木氏の文書などいずれでも、槇姓の使用は見られず、真木姓で一貫していますが、元禄年間以降は小諸藩文書・小諸真木氏文書(仮称)・江戸武鑑・牧野一郎所蔵文書では、槇姓や真木姓が混用されるようになります。

長岡元禄分限帳にある槙権左衛門が小諸藩に赴任して、真木家の枠を相続したということなのでしょうか? 単純な養子相続だったのでしょうか?

なぜここにこだわるかというと、理由があります。

与板に立藩したときに、随従したのは真木権左衛門、その子は在所家老に昇格して真木権左衛門と称しました。三代目は、真木六郎兵衛と称して、やはり在所家老となったということが、与板藩文書・小諸真木氏文書(仮称)・牧野一郎所蔵文書にあってすべて共通であり、一般に査読可能な文献もあるため疑いの余地がありません。ところが長岡元禄分限帳に槇権左衛門が突然登場する。槇勘左衛門重全(後に内蔵介に改称)が天然痘に感染したため、弟を出仕させたが、槇勘左衛門重全が奇跡的に回復した。これにやや近いことが長岡の歴史1(今泉氏著)にも触れられています。

槇勘左衛門重全の弟である権左衛門の処遇が注目されるわけです。

小諸転封は元禄15年ですが、長岡元禄分限帳は、元禄何年のものかは不詳です。

  • 1,まず疑問の第一は、先法家槇氏が小諸真木氏の通称・権左衛門を養子に出す前に庶子に使用するかという謎です。また養子に出してから権左衛門を通称させたなら、これは長岡藩士として出仕させたということになります。しかし惣領分という注記もあり、謎が深まります。小諸に出仕した権左衛門の本藩からの手当てという解釈をとることもできますが、私はその解釈は厳しいのではないかと思います。そうかと言って全否定するだけの材料と自信もありません。ご意見をお聞かせください。
  • 2,牧野幕府さんが、過去に先法家槇氏の庶子が、小諸に加増された支藩の藩主・牧野氏に随従して付家老になったとみられる。という意味の記事を書かれたことがありましたが、与板藩文書・小諸真木氏文書(仮称)・牧野一郎所蔵文書などを読んだことがなければ、そう考えるのが当然です。
  • 3,小諸真木(槇)氏は、権左衛門が小諸藩の家老となってからは、しきりに槇姓を使用したがるようになります。養子に入った小諸第九代藩主に、どっちが本当だと聞かれて、藩主の沙汰で再び真木氏に統一したということのようです。小諸で惣領家だけで300石以上の藩士になっていたのに、なぜ槇姓が使用したかったのでしょうかね?。ご意見をお聞かせください。
  • 4,単純な養子相続であったのか、それとも真木権左衛門家の枠は、槇内蔵介の庶子に引き渡すということだったのでしょうか。また一代だけだと思いますが、真木氏が付家老になったというのは、小諸真木氏の僭称なのでしょうか?。ご意見をお聞かせください。

--鉄三郎 2008年2月9日 (土) 14:13 (UTC)


☆「七百石、真木茂左衛門・二百石、真木庄左衛門はどのような人物とお考えになりますか?」への回答です。

  • この2名について、私には具体的に手がかりになるような史料がありません。ゆえに、想像でしかものが言えません。私が予想したのは、真木越中守の本来の嫡男たるべき真木清十郎某が長岡入りの後、何らかの処遇(俸禄受給)を受けたのではと(追放はされていないのですから)。一方の真木五郎八は「諸士由緒記」によると真木小太夫の嫡子扱いにしたわけですから、あるいは五郎八は五百石から七百石へ増封栄進したのかも知れません。これと対照的に清十郎は父の出奔の連座で二百石にとどまり庄左衛門と改称していたのかも知れません。茂左衛門が五郎八であるか私は確信できる典拠がないので想像ですが、茂左衛門が七百石の家老級の知行をうけながらも、役職(加判の列でもないでしょう)を持たず、平番士で牧野平左衛門組にいるのはやはり、祖父の処分の影響を暗示しているのでしょうか。私の勝手な想像です。--故城一片之月 2008年2月10日 (日) 03:36 (UTC)

槙三左衛門と、槙平兵衛は、槙三郎左衛門重勝の養弟とお考えになりますか?。諸士由緒記の記述は必ずしも明確ではありませんが、槙三左衛門と、槙平兵衛は別家召し出しのように解釈もできます。逆に槙三郎左衛門重勝が別家召し出しであったかもしれません。槙三郎左衛門重勝・槙三左衛門重武の家督相続に関する記述も明確ではなく、お茶を濁すようになっています。数種類の文献を読み合わせるおぼろげながら、事情が見えてくるといようなことになっています。何か意味があるとお考えになりますか?。明確に記述したら、まずかったのでしょうか?。また査読できない文献を含めての話しになって恐縮ですが、真木小大夫系の家譜や家伝には、真木越中の出奔記事が残っているのに対して、槙三郎左衛門重勝・槙三左衛門重武等の系図・家伝にはそうしたことがまったく記述されていないのも何かを暗示しているのでしょうか?--鉄三郎 2008年2月23日 (土) 15:10 (UTC)

槙平兵衛家の家系が、槙三左衛門家の弟の家系であると、各種系図にあるのが興味深いです。なぜ真木三郎左衛門の四男家系などといわないのが不思議ですね。--鉄三郎 2008年2月24日 (日) 11:10 (UTC)


お返事が遅くなりまして、どうも。
いずれにせよ、私は真木(槇)氏関係の資料は乏しいので、想像上のお話になってしまいますから、これ以上の事は差し控えたいと思います。一字マキ氏と二字マキ氏の由来には同族か別族かも含めて個人的には興味ありますが、ここでのお話は適当でないので止めます。御指摘の件については、多分にニュアンス的なことであり、御子孫など係累・血筋の方ならば、その様なことも察し得るでしょうが私には無理です(ウィキペディアでもありますし)。あくまでも手元史料を検討した限りのことのみ言及できます。記事大改造とのことですが影ながら応援致します。申し訳ありません。--故城一片之月 2008年2月25日 (月) 12:12 (UTC)

あなた様の御推察の通り、真木越中・善兵衛とは別流をなす牧野氏家臣の真木氏があったようです。「歴史と旅、武田信玄総覧」(秋田書店)と、長谷寺発行のパンフレットが一般に広く査読できる文献だと思います。あまりボリュームもないので、書くことも少ないないのですが、三河真木氏と、真木氏 (牧野家重臣)のほうに記述させて頂きます。--鉄三郎 2008年2月25日 (月) 18:17 (UTC)


槇権左衛門の件

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お答えというより、自分なりに考察した意見です。理由は意見の下に付します。
  1. 私の意見、槇権左衛門は庶子扱いではなく、嫡子(総領)扱いである。よって、総領分の長岡藩在籍中はその俸禄を支給されていた。
  2. 付け家老の身分であったかどうか私には判りませんが、小諸真木家に養子で入ったとは推察します。
  3. 権左衛門は出身が槇内蔵助家であり、先法槇家出身の意識がかなり強かったことの現れと思います。
  4. 養子入りについては納得いく話ですが、槇権左衛門の長岡藩における家禄跡式をどう処置したかはいまは判りません。更なる検証が必要でしょう。

☆理由

  • 槇権左衛門の名は長岡藩「元禄分限帳」(元禄2年(1689年)成立)に所見なし。
  • 槇権左衛門、槇勘左衛門は同「延宝分限帳」(延宝7年(1679年)から天和初年(1681年)頃成立)にはともに所見あり。槇権左衛門は「御番入り宗領分」として大組入りしている。また、槇勘左衛門も同じ分限帳で「番頭」の役職を与えられている一方、二人扶持支給である。これは正規の俸給を受けていたとは思えず、病身故に先法家の元総領分としての面目のみ保つよう配慮されていたと解せられる。
  • 六百石・槇惣右衛門の名が、「延宝分限帳」・「元禄分限帳」の双方にあり、これは「諸士由緒記」より槇重勝(新助・三郎右衛門)の嫡子・槇重明と同定され、この時期の先法槇家当主と判断できる(「二代目六百石家督被下重明御番頭、・・・延宝六未寄合組被仰付」)。
  • 長岡藩「宝永分限帳」(宝永4年(1707年)成立)に寄会組高六百石・槇内蔵助が見え、これは「古格旧法」(『長岡の歴史1』今泉省三著)によれば、槇勘左衛門は病身から出仕成難く、養子を取るよう上意があったとされ、御目付役を槇家に派遣して養子願いを提出させた。故に勘左衛門は事実上、総領退身の処置を受けていたことがわかり、この内蔵助は養子であったかもしれない。
  • 槇内蔵助家=真木三郎右衛門は三河在住時代は永禄以前から真木越中守家とは別流をなしていたと推察され、富永口戦功など別に武勲があり、筋目(功績・由緒)を独自に保つ家柄であったと思われる。真木越中守の出奔事件は槇家等、藩内残留者には大変迷惑を蒙ったと推察され、槇権左衛門が「槇姓」にこだわったのはその意識によるものと考える。

(槇新助重勝は真木越中守の子ならば真木三郎右衛門家養子入りで血統的にも真木・槇両家を代表する存在になったと思われ「先法槙家」の位置もこの時期に確定したといえる)

  • 真木(槙)権左衛門の小諸藩付け家老就任の件は関係史料を持ち合わせないのでコメント不能。

以上です。--故城一片之月 2008年2月10日 (日) 03:38 (UTC)


4に関するコメントです。

当主が幼少・長期病床の場合は、家禄本給の給付が受けるが、出仕できない状態になります。これは不忠になると考えられ、かわりに誰かを出仕させます。大名・旗本の当主とは、この点が異なります。誰かとは部屋住み身分の弟であったり、叔父であったりするわけです。時には養子に出た者を呼び戻すこともあったようです。中継ぎとして弟や叔父を出仕させ、彼らに男子ができる一方で、長期病床の当主にも幼少の男子がいたり、幼少当主が成長して、後に男子ができた場合は、ミニお家騒動になりかねない状態となるわけですが、このような場合は、新恩がなくとも、本家の家禄を割いて分家を分出させました。このほか当主が婿養子で、長男が妾腹・次男が正室の男子というようなときも、新恩がなくとも、本家の家禄を割いて分家を分出させました。但し小禄の場合は、分家の分出ができない場合もあり、このような場合は、家格を落とすなどの措置がとられることもあったようです。以上は歴史学の大学講師に口頭で質問したところ一般論として、回答を頂きました。

槇内蔵介家は、権左衛門のために分家の分出は行わず、小諸に跡式があったので、もっけの幸いで、これを継がせたことは疑いの余地がないと思います。新恩なしの分家の分出は、惣領家の当主の本音としては、極力おこないたくなかったはずです。江戸時代後期の史料を読むと、同族間で繰り返しこうしたことがおこなわれていたことがわかります。長岡中央図書館に家老・先法未満の上級家臣の家柄でのうち、何家かの家系図の写本が残っていますが、それを閲覧しても、そうした動きがわかります。

従って、槇権左衛門の枠は、長岡には存在しないというのが、私の結論になります。--鉄三郎 2008年2月11日 (月) 16:46 (UTC)


なるほど。よく分かりました。予想はしていましたが、結局、真木権左衛門が転出の後は長岡跡式は収公されたとみるべきなのですね。「延宝分限帳」の記載のされ方もこれで説明できるわけですね。--故城一片之月 2008年2月11日 (月) 17:03 (UTC)

困った話し

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豊川市図書館にある資料のうち、私の主観では珍説・奇説あっても、一般に査読できれば掲載すべきか悩みます。地元には結構、有名な郷土史家が出版しているいい加減な書籍があります。いま氏名は失念してしまいましたが、故人になられたある著名な郷土史家は、生前に立派な体裁の郷土史の書籍を出版されました。ここから孫引きしたと思われる書籍・雑誌・パンフレットなどが次々に登場しています。例えば「牛久保城は城攻めされた記録はない。」とあちらこちらに書かれた文章が出回っています。

某郷士の御子孫は、地元の有力者。このかたは、地元新聞に郷土史の記事を寄稿される方に、一席設けて、自分の先祖をよく書いてもらうおうと誘導する。贈収賄罪が成立しないから、やりたい放題ですよ。地方新聞の地元記事に、郷土史の一ページとして紹介されれば、少なくとも一般人を納得させる典拠情報になります。名指ししてここに書いて、名誉毀損で訴えられるといけないので、やめておきますが、地方都市や田舎では、あちらこちらでやっているはずです。--鉄三郎 2008年2月9日 (土) 07:52 (UTC)


公刊されている文献であれば、紹介は可能でしょう。但し、記事のたて方は工夫が必要でしょうけど。「逸話」系統の話は該当ページのメイン記事をなるべく優先して、下部に「・・・に関する逸話」とかと予めお断りをしておけば、編集合戦のような事態は避けられると思います。
あなたのお考えのように事実関係の羅列だけでは、つまらないというか百科事典の内容として、幅や豊かさがあるのがより良いと思います。最近アップされた秀逸ページ源義経がメインページに紹介されていましたが、見事なページですね。私も半人前のウィキペディアンですから、記事モデルとして今後自分の編集活動に参考にさせて貰うつもりです。
郷土史関係ではそのようなことはありがちでしょう。その一方で、郷土史研究は学閥や国家政策に縛られない立場で、ともすれば地方切り捨ての傾向のなかで失いがちな地道な調査・研究活動をしている場合も多く、そこから通史が改訂されるような新発見も生まれる可能性があることも無視できないと思います。
ウィキペディアは記事そのものを土俵にして議論することを目的にせず(禁止事項)、あくまで編集上の議論としてノートを活用するシステムですよね。また、記事編集上の情報交換は各利用者の会話ページでしても良いことになっているのだから、真木(槇)氏のお話もそれでしている訳です。
お話の某郷士の先生のような自家の歴史を顕彰する(自画自賛)行為はウィキペディアでは慎むべきなのは勿論でしょう。ただ、これまでの例をみていると、歴史人物関連ページでその人物の子孫と自称される方が登場して議論になる例もあったようで、ただ議論の参考意見にはなっても、一般に検証可能な典拠に基づくというウィキペディアのスタンスが崩れる訳では無かったと思います。某郷士の先生がいくら一席設けて頑張っても、ネット百科事典であるウィキペディアの影響力にかなうはずもないのだから、これを意識されずに鉄三郎さんが正統な編集を継続されれば大して問題ではないでしょう。(牛久保城が一度も合戦に巻き込まれた事はないなどはここのページ牛久保城の典拠に基づいた記事をみれば真偽は一目瞭然の筈です)--故城一片之月 2008年2月9日 (土) 09:27 (UTC)

私はオタスケマンとは、まったく関係はありません。今回は貴殿の忠告に従います。--おたすけまんを助ける会 2008年2月28日 (木) 15:56 (UTC)

実は来年度から、外国に赴任することになりました。出発は4月中旬から、5月上旬ごろを予定しています。そこでお別れが近いことのご挨拶にまいりました。お別れと言ってもネットで、どこからでも、このページにはアクセスできるわけですから、たまには遊びにこようと思っています。しかし赴任先は、先進国ではないので、ネット環境は不明です。まだしばらくは編集に参加するつもりです。長い間、ご厚誼をたまわりありがとうございました。--鉄三郎 2008年3月15日 (土) 13:02 (UTC)