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利用者‐会話:客観主義

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警告

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貴殿の西廻海運東廻海運の編集を差し戻したものです。言葉足らずだったようですが、1670年に河村瑞賢が行った東廻海運はそうだとしても、仰せのように最上川の最上流にある米沢藩は阿武隈川経由で廻米しています。酒田から津軽海峡経由の廻米も東廻海運であり、西廻りが主体になったのは結果です。実際に廻米されたわけではないのですが、最上川を溯り阿武隈川経由とか、奥羽山脈を越えて仙台藩領から輸送する方法もあり、これらはいずれも西廻海運よりも距離ははるかに短く日にちもかかりません。半周もすれは十分大回りなところ、日本列島を2/3周もする通常は考えられないルートを敢えて選んでいるわけですから、それに触れる必要はある筈です。ですが、それよりも問題はいきなり除去していることです、記事を除去するのであれはそれなりに告知して一定期間過ぎてからにすべきです。反対意見があったなら、議論の上合意の形成をはかってください。論旨を全く変えてしまうのも同じです。--122.26.32.130 2022年8月27日 (土) 11:11 (UTC)[返信]

議論なく消した。これは私の落ち度ですので謝ります。ご指摘の通り記事を改変、除去する場合はノートで議論を書いた後、一定期間過ぎてから行うことにします。--客観主義会話2022年8月28日 (日) 01:16 (UTC)[返信]

西廻海運の編集

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追加ですが、貴方が削除した、瑞賢は「同年開いたばかりの東廻海運ではなく、距離は倍以上になるが安全な西廻りを採ることとした。そして、」というのは、単に距離も短くコストもかからない東廻海運ではなく、敢えて西廻りを選んだという事実を書いているだけであり、削除する意味がわかりません。貴方の仰っていることは屁理屈です。「それまで、津軽および出羽からの輸送は敦賀小湊で陸上げし、陸路琵琶湖に至り湖上を船で大津に送り、また陸送して京阪に運ぶルートであり、江戸へはさらに大阪からの船便であった。当時は米は重要な戦略物資であり、大量生産、大量輸送、米余りの昨今の常識では考えられぬことではあるが、輸送経路の長さや日数より何より、米一粒の無駄もない輸送が望まれ、海路から陸路そして水路へと積み替え回数が多く、従って米の損失が避けられない琵琶湖を経由する廻漕は敬遠されるようになったのである。」については、出展に示されている『海と日本人の歴史』を見たわけではありませんが、西廻海運 日本大百科全書(ニッポニカ)「西廻海運」の解説に「それまで加賀(石川県)以北の物資を上方(かみがた)へ運送するには、まず海路敦賀(つるが)・小浜(おばま)(福井県)に運び、それから陸路を琵琶(びわ)湖北岸の塩津(しおつ)、海津(かいづ)、今津(いまづ)(滋賀県)に駄送し、そこから湖上運送で大津に達し、さらに陸路京都ないし大坂まで運ばれた。しかしこのコースでは、積み換えに手数がかかり、運賃も高く、荷物の損失も多いため、一貫して海路による海運航路の開発が望まれた。1672年(寛文12)、出羽(でわ)直轄領の御城米の廻送にあたり、幕府は河村瑞賢(ずいけん)を起用して、西廻海運による江戸廻送に成功した。以後この航路は、東廻航路に比べて風待ちの寄港地に恵まれて航海安全であり、かつ大坂の繁栄とも相まって、大いに発展していったのである。」と同じようなことが書いてあります。多分いろいろな資料に同様なことが示されているのではないでしょうか。ともかく、出展が示されている記述をむやみに削除してはいけないというのは、当然のルールです。--122.26.32.130 2022年8月27日 (土) 11:34 (UTC)[返信]

こちらを議論なく消したという事実は私の落ち度なので謝ります。
『瑞賢は「同年開いたばかりの東廻海運ではなく、距離は倍以上になるが安全な西廻りを採ることとした。そして、」というのは、単に距離も短くコストもかからない東廻海運ではなく、敢えて西廻りを選んだという事実を書いているだけであり、削除する意味がわかりません。』
当時、水運や陸運でなく海運を使うことにシフトしていった時期で、また東廻海運は酒田から荒浜までという酒田から江戸の東廻海運の工程の半分以上が未整備、前例も西廻りなんです。"敢えて"西廻りを選んだわけではなく当時だと普通だと認識しているので消したってのが理由の一つです。「1714年、幕府は奥州のみならず出羽の幕領米も東廻りで江戸廻米することを決め」と国史大辞典の東廻海運の項目には載っていますが、このように、40年以上後にやっと行われる話であり、当時、東廻りは出羽酒田から送る手段ではなく西廻りが当然だったのだと思います。この書き方だと酒田からの東廻海運を瑞賢が開いたように思えるのも理由の一つです。
この項の参考文献に国史大辞典と付記されてますがこの文献に瑞賢が東廻海運と比較する話は載っていないんです。西廻りは刷新によって距離が倍近くになっており、距離が倍以上になったのは西廻りの刷新の結果なんです。また、寄港地にもよるとは思いますが、東廻りに対して、刷新後の西廻りの距離が倍あるかも怪しい話です。参考文献にない話を書いてしまった上に起きている問題だと思います。当時、距離という概念を理解できていたかは怪しい話です。日数での理解が基本だったのではないでしょうか。江戸時代後期に東廻海運が北国まで整備された後でも、越後に東廻りと西廻りの日数の分岐点があります。
主にかかる費用と積荷の損失をコストと呼ぶと思いますが、コストが西廻りをとると安いので西廻りが当時主流だった認識です。
「それまで、津軽および出羽からの輸送は敦賀か小湊で陸上げし、陸路琵琶湖に至り湖上を船で大津に送り、また陸送して京阪に運ぶルートであり、江戸へはさらに大阪からの船便であった。当時は米は重要な戦略物資であり、大量生産、大量輸送、米余りの昨今の常識では考えられぬことではあるが、輸送経路の長さや日数より何より、米一粒の無駄もない輸送が望まれ、海路から陸路そして水路へと積み替え回数が多く、従って米の損失が避けられない琵琶湖を経由する廻漕は敬遠されるようになったのである。」こちらの削除は撤回させてください。申し訳ありません。--客観主義会話2022年8月28日 (日) 03:33 (UTC)[返信]
わかりません、「同年開いたばかりの東廻海運ではなく、距離は倍以上になるが安全な西廻りを採ることとした。そして、」を削除するにはこの記述があってはいけないということ示さなければいけません。そして私は「いろいろなルートが考えられるなかで、敢えて通常は考えられない大回りなルートを選んでいることには触れる必要はある」と言っているのですから、それに答えるべきです。それにもましてわからないのは、貴方は間違いを犯しているのです。罪を犯したのですからその償いはしなければならないのは当然のことです。罪の償いはそっちのけにして、多少譲ったふりをして、自分の主張を繰り返すのであれば、それは議論ではありません。--122.26.32.130 2022年8月28日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
前例があるのに通常は考えられない理由を教えていただけますか?--客観主義会話2022年8月28日 (日) 13:25 (UTC)[返信]