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利用者‐会話:太宰由紀夫

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ウィキペディアにようこそ!

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こんにちは、太宰由紀夫さん、はじめまして!ウィキペディアへようこそ

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。

Welcome to Japanese Wikipedia. If you are not a Japanese-speaker and expect further information, visit Wikipedia:Chatsubo for Non-Japanese Speakers. Enjoy!

なお、このメッセージは主に利用者‐会話ページに何も記入されていない方に投稿しておりますので、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、お詫びいたします。--ようこそ 2006年2月20日 (月) 20:42 (UTC)[返信]

スタイルマニュアルをご覧下さい。johncapistrano 2006年3月11日 (土) 17:31 (UTC)[返信]

中立的な観点について

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右翼や自由主義史観への批判自体には反対ではありませんが、ウィキペディアでは中立的な観点が方針になっています。太宰由紀夫さんの一連の編集は、事実の紹介・記述を超えて、批判や主張の域に入っているように見えます。批判的な観点を記述するときは、たとえそれがばかげて見えようと、反対の主張や反論もあわせて紹介し、その際、記述者がどちらを支持しているかを記述しないようにしてください。価値的な断定はなるべく避けていただきたいと思います。Clinamen 2006年3月14日 (火) 18:19 (UTC)[返信]

こんにちは。井戸端を見て参りました。私は自由主義史観に批判的ですが、太宰由紀夫さんの言い分はやや偏っているのではないでしょうか。私自身は南京大虐殺についてはじつは懐疑派です(補足しますが、懐疑派というのは否定派ではなく、少なくとも現状の南京大逆説に対する中国側の発表--たとえば被害者30万人など--を懐疑するという意味です)。私のこの見解は中国側の発表および日本国内の論争を通じて、秦郁彦が述べてきた見解に基づいていますし、私自身が調査したり研究して到達したものではありませんが、私自身の判断で秦の見解は事実性が極めて高いと判断した故それを信じている次第です。とはいえ、私自身はWikiペディアの「南京大虐殺」の記事がとりあえずアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』に全面的に依拠して書かれたとしても特に問題視するつもりがありませんし、そういうことをなさっても結構だと思います。ただし、それが『レイプ・オブ・ナンキン』や南京大虐殺記念館の資料に依拠していると明示されるならば。それらが明示されれば、それらと反対の立場に立つ資料やそれら自体の事実信憑性の問題から改めて検討が加えられることでしょう。少なくともその余地は確保されます。私自身は秦の見解がそれらの資料が主張する以上の根拠と確実性ともっていると信じていますし、Wikiペディアを利用している人はまじめにこの百科事典のことを考えてくれている人たちばかりですから、きっとそれらに問題点があれば一緒に解決してくれるでしょう。
太宰さんはイデオロギッシュという表現を用いていますが、私自身がほとんど投稿したものですがイデオロギーの記事を参照してください。私自身も自戒をこめてこの記事は書かせていただきました。私はいつも自分がイデオロギー的な偏見に陥っていないか、イデオロギー的な立場で相手のイデオロギー性を暴露しようとするような不毛な論争に陥っていないかということを常々心がけています。イデオロギーの項目は個人的な意見を書くところではありませんので、問題点の指摘を最後におこなう程度にとどめて、イデオロギー的観念の支配を逃れるために私が考えている意見については一切含めていませんが、あえて言わせていただきます。まず相手を「イデオロギー的である」と規定することは、論争を基本的に困難なものにするでしょう。なぜなら、「イデオロギー的である」という定義は結局観念論争の舞台に主題を移行することであり、世界観の記事を参照してもらえば、なんとなくわかると思うのですが、このような観念論争は妥協的な解決を見いだせないならば、基本的に不毛です。しかしながら、イデオロギー的論争で妥協をすることは、本質的な問題に関する限り、解決は不可能でしょう。なぜならば、イデオロギーの記事にもあるとおり、イデオロギーの基盤は不合理的な信仰や信念であり、イデオロギーに付随する雑多な従属的な観念レベルでは妥協することは出来ても、信仰や信念の部分で妥協することは不可能です。これが可能であるとすれば、ヘーゲル的な弁証法に基づいて、より包摂的なイデオロギーによって本質をすりかえるしかないと私は考えます。このような本質観念の止揚は、おそらく社会的な発展や科学的な進歩なくして一朝一夕には得られぬものと私は考えますので、少なくとも私の意見ではこのような解決は斥けられます。
とすれば、ある事柄について論争で解決を決着しなければいけない場合、イデオロギー的本質によるのではなくて事実性とその重要性と信頼性から検討されるべきでしょう。まずある事柄が事実であるかないか、これが大事です。とはいえ事実というものも明らかであることとないこととが往々にしてあり、事実性だけを根拠とするわけにはいきません。また事実であるからといって、それが本質的なものであるかというようなことも当然問われねばならないでしょう。そのためその事実の重要性についても問われねばなりません。その事柄についてくだらない事実は斥けられるべきでしょう。なぜならそのような枝葉末節の事実は本質的な事実と同列に扱うことは出来ませんし、そのような末端の事実を強調するあまり、本質的な部分でいつまでも解決が得られないということは問題です。そのような態度は本質的な問題の解決について言及を避けているという意味でも非難されるべきでしょう。最後に信頼性が問われます。重要な提言、あるいは本質的な部分に関する重大な事実であったとしても、明らかに信頼できない根拠に基づいていれば当然疑われるべきです。イデオロギーの記事にあるように、それがイデオロギー的な根拠から導き出されていないか、イデオロギー的な偏りを含んでいないかということはつねに考慮されるべきです。とはいえ、このことは政治な意図を含んでいるかいないかというようなことを気をつけろと言っているのではありません。ミシェル・フーコーが言っているように、あらゆる言説には政治性や権力性はつきものですので、政治的な意図なしで言説を語ることは不可能であると言っていいでしょう。とすれば、この信頼性の評価についていえば、逆転的なことになりますが、事実性と重要性を証明する過程で明らかにされるものと考えることが出来ます。とすれば、事実の信頼性を高めるのは、われわれ自身の事実性と重要性に対する真摯に批判的な視点であるということができましょう。
とりあえず簡単にいってしまえば、自由主義史観がイデオロギー的であるから、彼らの主張する事実は全て事実でないと認めなければいけないということは絶対にありえないことはすぐに納得していただけるかと思います。同様に、自由主義史観がイデオロギー的であるから、彼らに関することは第一義的に記載されなければならないということも否定されます。とすれば、その記事においてまず検討されることは、自由主義史観がどうであれ、まずその記事にとってその事実が重要であるかないかということではないでしょうか。とすれば愛媛県の記事に「近年県知事が新しい歴史教科書に積極姿勢を見せたことが、物議をかもし出している。」という記載をすることは果たして事実として重要であるかどうか、すくなくともWikiペディア内においても、ほかにふさわしい箇所があるのではないでしょうか。--Kanbun 2006年3月16日 (木) 06:56 (UTC)[返信]
長々と書いてしまいましたが、Wikiペディアのコミュニティでの太宰さんのご活躍を期待しています。事実性と重要性について、しばし考えていただいてこれからも素晴らしい記事を作っていってください。--Kanbun 2006年3月16日 (木) 07:01 (UTC)[返信]
こんにちはToki-hoと申します。太宰由紀夫さんの井戸端でのご発言などを拝見して、こちらに参りました。まず、あちらにお書きの「人を思いやらない」「ネット右翼である」ということですが、太宰由紀夫さんのお目に日本語版執筆者(全体?)がそのようにうつっているようでしたら、大変残念ですし、また、そのようにうつってしまったことに対しては、Wikipedianのひとりとして反省しなければいけないと思いました。まず、そのことを思い切ってお知らせいただいたことに感謝いたします。ところで、太宰由紀夫さんの行動が、persona non grata と複数の方のお目にうつっているようですが、これは、通常のWikipediaの運営上からいって、普通の感覚のようにも思います。つまり、われわれは、知的な部分で百科事典をつくることをめざしているのであって、声高に情的な部分に訴えかけてなにごとをなそうとしているのではないからです。すでに多くの方々も書かれていますが、ここWikipediaで、そのような行動をされてもなんの効果もなく、また、かえって、太宰由紀夫さんがめざされる(と、私は理解しております)「戦争のない世界の構築」に逆の効果をおよぼすのではないかと危惧いたします。どうか、あなたにとっての論敵をかえって利するような行為をひかえ、どうすればあなたの目的が達成されるか、とりわけ、Wikipediaの場でどんな行動をすれば、あなたの言説がうけいれられるかを、冷静にお考えください。単に、ご自身の考えを叫ぶように書かれるだけではあなたのおっしゃる「偽装知識人(御利用者ページより)」を説得的に論破できません。Wikipediaには「敵のために書く」という経験にもとづいた指針があります。あなたの「敵」が、どのような言説をどのような場でなしているのか、実証可能なかたちで、克明にお書きになることをお勧めいたします。「◇◇について〇〇は、■■の資料を使って△△であると、××という雑誌に19□□年に書いている。」Wikipediaには、こう書くだけで十分なのです。こう書けば、読者は、〇〇がどんな人か、■■は、どんな資料か、△△は、その資料にもとづいて正確であるのかないのか、××という雑誌はどういう意図をもって編集されている雑誌なのか、19□□年は、こういった言説に対してどういう態度をとる時代なのか、それを判断します。(そのために内部リンクもあるのですから。)これが、百科事典の役割だと、私は思います。これは、上でKanbunさんが懇切におっしゃっておられることとも同じ趣意です。さて、こう書いてきて、私自身がそのことをきちんとできていないことのほうが多いのではないか、ということが、今わかりました。これが、非常に難しい営みであるということも。しかし、自分自身にいい聞かせるのですが、この非常に難しい営みをあえてやる覚悟がないと、百科事典は書けないのだと思います。ごいっしょに、創ってまいりましょう「信頼されるフリーな百科事典――それも、史上最大の、質も量も最高の百科事典(cf Wikipedia:基本方針とガイドライン)」を。Toki-ho 2006年3月21日 (火) 06:09 (UTC)[返信]



こんにちは。Wikipedia:ウィキペディアについてでのテスト投稿ありがとうございます。残念ながら、通常のページでのテストは、差し戻しまたは削除されます。テスト専用ページWikipedia:サンドボックスの使用をおすすめします。このほか便利な機能をいろいろ紹介するガイドブックもご参照ください。あなたのウィキペディア・ライフが充実したものでありますように。--Tietew 2006年3月16日 (木) 11:58 (UTC)[返信]


第二次大戦中の諸惨事についての記述

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この件について中立の立場を示す場合、「あったという人もいるがなかった人もいる」という方法もあります。具体的にこういう人はあったといい、こういう人はなかったというと記せばもっと客観的でしょう。「あったともなかったともいえない」と事実について中立で書こうとするのは私もおかしいと思いますが、諸説があるということは事実と矛盾しないで済むと思われますがいかがなものでしょうか?

従軍慰安婦や南京大虐殺については自分は「多分あっただろう」と思うのですが(戦争に行くのが基本的に男である以上どうしてもそういう性的暗部や破壊衝動は付きまといます、古代の戦闘から現在の在日米軍まで全部。)真実を追究するのは裁判所にでもお任せして置けばいいのです。百科事典として必要なのは単なる歴史事実だけでなくそれについてどう語られるのかも含めた総合性ではないでしょうか?Elthy 2006年5月4日 (木) 15:24 (UTC)[返信]