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利用者‐会話:困ったもんだ

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吉次公介の記事について

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こんばんは。突然の連絡失礼いたします、従六位上河内介会話)と申します。”吉次公介”のこの差分を確認しました。”集団的自衛権における政府見解の事実誤認”節の本文中にある「著者である吉次が「昭和56年(1981年)」と19「56年」を誤認していたという驚愕の事実が確認された。」「同書内における吉次の主張、論考の一部は、この事実誤認により必然的に破綻したものとなってしまったが~」という記述に修正されていることを拝見いたしましたが、出典元のアゴラ記事および記事の元になった篠田先生のブログを確認したところ、驚愕の~の箇所については、「いささか驚くべき事情ではある。」という一文から反映されているのと思慮されますが、驚くべき事情という表現と驚愕の~では強調の度合いが異なるようにも見えると考えております。また、必然的に破綻したものとなってしまったという記述に該当する表現が当方では確認できませんでした。今回、お尋ねしたい件として、①驚愕の~必然的に破綻したものとなってしまったという記述は出典元のどの箇所の記述より参考にされたものなのか、②これはあくまでも一個人の意見なのですが、驚愕の~という表現や前回投稿分の節の名前にもはやギャグレベルの~と記述されたことに対して、ウィキペディアの方針の一つであるWikipedia:中立的な観点に抵触しないかと思慮しております。その点を踏まえて、困ったもんだ様は、吉次公介の記事の投稿に際して先述の方針と上記の表現は整合取れているものとお考えなのかとお聞きしたいと存じます。長文失礼いたしました。--従六位上河内介会話2018年12月16日 (日) 13:18 (UTC)[返信]

ご質問の件について

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こんばんは。まず「驚愕の」ですが、当事者である篠田教授は品よく「いささか驚くべき事情」とお書きになってらっしゃいます。「びっくりした」という程度であれば、単に「驚くべき事情」と書かれたでしょう。そこに「いささか」という副詞がついている点を考慮し、「呆れた」様子が伝わるような表現にしました。吉次氏の職業・肩書(大学教授)を考えれば、何度も校正を重ねたはずである自著で「昭和56年」と「1956年」を誤認したまま論を展開するという行為は、自ら職を辞し肩書を外すべきレベルの致命的なものです。そのお粗末な仕事ぶりが読み手にきちんと伝わる言葉をもって表現されることが「中立」だと個人的には考えますが、世の中には「オールド・ファッションド左翼の間違いには寛容でなければならない」とか「オールド・ファッションド左翼の失態はなるべく人の目に触れないようにしなければならない」と考える方がいて、事実、この項目に関しても何の断りもなく丸ごと消去されたりもしています。今後、編集合戦になっても面倒なので篠田教授の文を引用し、単に「驚くべき事情が判明した」としておきますね。また、「必然的に破綻したものとなってしまった」の部分ですが、ウィキで「部分的にここだけを読む方にわかりやすく」との判断からこう記述しました。事実を誤認したまま論を展開すれば、当然、論は破綻しますので、そう記述するのに何がしかの問題があるのかな、という疑問もありますが、何より。篠田教授が「私の本の議論を否定する内容であるため、それでは困るので、ブログに書く、と宣言した。」とお書きになってらっしゃることを、もう少し重く見るべきだと個人的には考えます。篠田教授の言う「内容」とは、言うまでもなく吉次氏が当該著書で展開した「論」に対する言葉です。単に年代の間違いを指摘したわけではなく、年代を間違った結果「論の破綻した」本が、堂々と売られている。そのことに対して、版元に抗議し、まともな回答が得られなかったので文章を書いた。それ以外に、この文章をどう読めばいいのでしょうか? いぜれにせよ「同書内における吉次の主張、論考の一部は、この事実誤認に基づいて行われているが」と直しておくことにします。これは客観的な事実なので。--困ったもんだ会話2018年12月31日 (月) 16:19 (UTC)[返信]

  • 返信  お世話になります。ご返信いただきありがとうございます。まず、上記返信分に関して私の考えを述べさせていただきます。まず、『吉次氏の職業・肩書(大学教授)を考えれば、何度も校正を重ねたはずである自著で「昭和56年」と「1956年」を誤認したまま論を展開するという行為は、自ら職を辞し肩書を外すべきレベルの致命的なものです。そのお粗末な仕事ぶりが読み手にきちんと伝わる言葉をもって表現されることが「中立」だと個人的には考えます~』という記述について、Wikipedia:存命人物の伝記では、潜在的に論争となりうる(特に存命人物に対する名誉棄損や侮辱に該当する)記述については、記載されるべきではありませんと示されております。『お粗末な仕事ぶりが読み手にきちんと伝わる言葉』として、驚愕の~という言葉や節の名前にもはやギャグレベルの~と記述されたことに対して、ウィキペディアの方針の一つであるWikipedia:中立的な観点にも影響されると考えております。また、『今後、編集合戦になっても面倒なので篠田教授の文を引用し、単に「驚くべき事情が判明した」としておきますね。』という記述がございますが、そもそもWikipediaは全世界の人が閲覧する百科事典であり、個人の主観や感情は記載されるべきではありません。なので、『驚くべき事情が判明した』という、個人の主観や感情によって左右される誰が、どのように”驚く”のか判らないような記述は避けるべきであり、もし万が一にも記事の中核を担う表現だと困ったもんだ様が考えるようであれば、この件に対して、篠田は記事の中において「いささか驚くべき事情」と表現している。と記述に収めるべきと考えます。また、必然的に破綻したものとなってしまったの部分については、『事実を誤認したまま論を展開すれば、当然、論は破綻しますので、そう記述するのに何がしかの問題があるのかな、という疑問もありますが、何より。』という記述がありますが、篠田先生の記事を読んだ上で、困ったもんだ様が類推して必然的に破綻したものとなってしまったという表現にしたという認識でよろしいでしょうか。まず、篠田先生のブログ記事やアゴラ記事どちらも確認しましたが、「必然的に破綻したもの」とまで表現している記述はありませんでした。そして、もし先述の通り篠田先生の記事を読んで困ったもんだ様が類推した表現だとしたら、それはWikipediaにおける独自研究であり、記事のガイドラインの一つであるWikipedia:独自研究を載せないや、必然的に~という過度に断定する表現はWikipedia:大言壮語をしないに当てはまり、記事執筆に際しては避けるべき表現となります。最後にWikipedia:中立的な観点には、意見を事実として記さないとして、一個人の意見を事実のように記載することを戒めています。困ったもんだ様は篠田先生の記事を読んで、吉次先生の事実誤認を「事実」だと考えているように私は思慮しております。(当然、私も年号の事実誤認については篠田先生の指摘は的確と考えておりますし、記事の中において事実誤認の項目を設けることに否定はしません。)しかし、残念ながら吉次先生の事実誤認についてメディア等で指摘している識者は、今確認したところ篠田先生以外には居られない状況にあります。複数名の識者による指摘があり、その指摘が論争の余地なく事実だと定着しているような事象であればそれは事実として記載しても問題はありませんが、現状として篠田先生以外に識者のよる指摘がない以上は、吉次先生の事実誤認についてもあくまで篠田先生の一意見であり、「東京外国語大学の篠田教授は、自身の記事のおいて○○と指摘している。/「○○」と批判している。」というスタンスで記載しなくてはなりません。困ったもんだ様は、『篠田教授が「私の本の議論を否定する内容であるため、それでは困るので、ブログに書く、と宣言した。」とお書きになってらっしゃることを、もう少し重く見るべきだと個人的には考えます。』と記載されていることから篠田先生の主張に重点をおいていると思いますが、篠田先生の一意見と複数名の識者による指摘を経た事実を混同するような記述および百科事典の記述として適切でない個人の感情・冗長な表現は厳に慎むべきと考えております。

以上、私の意見を述べさせていただきましたが、もし吉次公介の記事の記述スタンスに対して異論があるようでしたら、ノートページでの議論によって他者の客観的な意見も取り入れたいと考えております。お手数ですが、ご検討いただければと存じます。--従六位上河内介会話2019年1月2日 (水) 14:08 (UTC)[返信]

  • 返信  お疲れ様です。当該の件。版元が「事実誤認だった」と篠田先生に伝えているのですが、いったい、それ以上、どんな識者からの意見が必要なのでしょうか? 経緯が事実であるならば、同業者から見ていちいちあげつらうのも気の毒なケアレス・ミス。当事者間で既に決着をみている以上、他の識者がわざわざ口を挟む可能性は低いかと思います。篠田先生のブログ記事は、岩波書店側に「事実誤認を指摘する」と伝えた上で書かれたことを明確にしてあります。そこには「重版の際に訂正する」という岩波書店側の対応案まで記されています。果たして本当に「事実誤認」なのかどうか。篠田先生の記事はどこまでの信ぴょう性を伴うものなのか。仮に吉次・岩波側で、何がしかまだ事実関係の検証が必要なのであれば、やりとりの公表に対し一旦ストップをかけ「相互に納得した情報」を公開するよう要求できます。ところが、そうした要求が行われた形跡はない。記事は篠田先生の主張に則ってそのまま書かれ、広く一般に公開された状態にあり、岩波側によるメディアや公式サイト等を通じた抗議、反論、提訴等のアナウンスもありません。篠田先生の側から「岩波より抗議・反論を受けた」という報告もありません。吉次・岩波側には、すみやかな抗議・反論の機会・手段があるにもかかわらず記事はそのまま公開され、何らの反駁も受けていないのです。その事実を踏まえるなら、これが「事実誤認」であるかどうかの議論はもはや不毛でしょう。岩波側が否定しない篠田先生の文章を参照するなら「論争の余地なく事実だと定着した事象」も何も、これは『単純なミス』でしかなく論争と呼べるようなものが最初からありませんでした。「一意見と複数名の識者による指摘を経た事実」も何も、他人の出る幕もなく当事者の片方が間違いを認めて終わってしまった話なのです(笑)。ところが貴方のスタンスだと、間違った側が間違いを公にせず「知らんぷりでスルーしたまま時が経つのを待つ」といういわば不誠実な対応をしていれば、正しい側の主張はウィキ上で「一方的に主張しているかのように記さなければいけない」ということになる。それはもはや「中立」を目指すものではなく、「不誠実な側への過度の忖度」以外の何ものでもないのでは? というのが個人的な見解ですが、いずれにせよ貴方自身の主張があるのであれば、記載されたものを丸ごと削除するのではなく、貴方の主張に基づいて文面を修正して下さると助かります。その際、「中立と忖度の違い」について、そして「当事者同士で納得に至ったケアレス・ミスを、いちいち他者に再検証してもらう必要があるのかどうか」について、今一度、良くお考え下さいませ。ノートページも何も、叩き台が示されていなければ議論もできません。また、事実全体を消去して語らなければならない理由もないと考えます。繰り返しますが、吉次・岩波側は、篠田先生の記事が事実でないならいつでも抗議・反論できる立場にありながら、それを一切していません。自ら権利を放棄している以上、事実として扱われて問題ないと考えます。--困ったもんだ会話2019年1月8日 (火) 21:29 (UTC)[返信]
  • 返信  今一度、要点をまとめておきますね。
    ●宣言した上で書かれ、一般公開されている記事に対し、論壇にいて意見表明の手段(メディア)を持ちながら抗議、反論、提訴等を一切行わない以上、書かれている内容を追認したとみなしうる。つまり、篠田先生のブログ記事の内容が事実であると認めるに足る合理的根拠がある。
    ●「論争」が行われるには対立する複数の主張が提起される必要がある。しかし今回のケースで吉次・岩波側に主張、つまり篠田側への反論はない。反論がなく争っていない以上「論争」の要件を満たさない。また、これから先争われる要点・争点が誰からも提示されていない以上、「潜在的に論争となりうる」状態でもない。
    ●当事者が既に認めている「検証の容易なケアレス・ミス」を、当事者外の同業者が論文等で揚げ足取り的に「あいつはあの時、あんなバカな間違いをした(笑)」と指摘する可能性は極めて低い。そういう「傷の上に塩を塗るが如き」指摘をまだ他から受けていないという理由をもって「事実だと認定されたわけではなく、一意見」だとするのは、いささかナンセンス。
    ●いずれにせよ、すでに従六位上河内介氏からの指摘も踏まえた上で、文章が修正されている。今現在掲載されている文章に、何か問題があるのか。あるのであれば、それを加筆・修正すべきである。その際、吉次氏に事実誤認があったことは、上記の理由から「認定された事実」として扱われるべきである。--困ったもんだ会話2019年1月9日 (水) 06:18 (UTC)[返信]
  • 返信  失礼いたします。少し、互いに意見の相違が在るようなので、整理させていただきます。今回、私が初めの質問から指摘させていただいていることは、①.困ったもんだ様の初回投稿分で節の名称にもはやギャグレベルの~と記述されたことに対して、ウィキペディアの方針の一つであるWikipedia:中立的な観点に反するのでは?という指摘。②.困ったもんだ様の初回投稿分にて、ご本人が記載された「著者である吉次が「昭和56年(1981年)」と19「56年」を誤認していたという驚愕の事実が確認された。」という記述とその次に困ったもんだ様の2回目投稿分にて改めて記載された「驚くべき事情が判明した」という記述に対して、Wikipedia:存命人物の伝記に照らし合わせて当該記事の人物の誹謗中傷に繋がる可能性がある記述や”驚く”という主観や感情によって左右される表現は避けるべきという指摘。③. 困ったもんだ様の2回目投稿分に記載された「同書内における吉次の主張、論考の一部は、この事実誤認により必然的に破綻したものとなってしまったが~」という記述に対して、仮に篠田先生の記事を読んで困ったもんだ様が類推した表現だとしたら、それはWikipediaにおける独自研究であり、記事のガイドラインの一つであるWikipedia:独自研究を載せないや、必然的に~という過度に断定する表現はWikipedia:大言壮語をしないに当てはまるため、避けるべき表現となるのでは?という指摘。 これら3点の件を指摘させていただいております。今回、困ったもんだ様の先般の返信を拝見しましたところ、恐らく節の内容全般に対する内容についての反論だと思いますが、前回の私の返信でも言及した”私も年号の事実誤認については篠田先生の指摘は的確と考えておりますし、記事の中において事実誤認の項目を設けることに否定はしません。”という言葉通り、節の内容を否定していませんし、その記述を消したのも私ではありません。ただ、上記の①~③までの指摘箇所が、Wikipediaでのガイドラインに抵触する可能性があることや、困ったもんだ様は投稿を始められて日も浅く、Wikipediaでのガイドライン・方針も初心者のためあまり存じ上げないようでしたので、僭越ながらその件をお伝えして合意が得られてから修正させていただこうという意図から質問させていただいております。さて、前回の私の返信で『最後にWikipedia:中立的な観点には、意見を事実として記さないとして、一個人の意見を事実のように記載することを戒めています。困ったもんだ様は篠田先生の記事を読んで、吉次先生の事実誤認を「事実」だと考えているように私は思慮しております。(以下略)』という記述しましたが、これはWP:YESPOVWP:SUBSTANTIATEを今回の事例に当てはめて説明させていただいたもので、①~③までの指摘箇所に関連して、例えば篠田先生が吉次先生の事実誤認について「驚くべき事情が判明した」と記しており、その記述をWikipediaに反映させるのであれば、その言及部分に誰が、どの媒体でどのように言及したかと帰属化させて記すべきという意図で説明させていただきました。ましてや版元が「事実誤認だった」という内容に関して、検証のために複数の識者の意見を待てという意図で説明した訳ではありません。もし文意が伝わりにくい内容であったとすればお詫びいたします。今回、困ったもんだ様の返信内容の要点を理解いたしましたが、上記返信に記されていた”「認定された事実」と扱われるべき”というは、ガイドラインや方針にそのような記載あってのことでしょうか。もし、そのような記述がございましたらご教示いただけましたら幸いです。--従六位上河内介会話2019年1月12日 (土) 14:30 (UTC)[返信]
  • 返信  お疲れ様です。ウィキペディアの文章は都度、色々な人の手によって修正されます。以前の版に私がこう書いたという話をいつまでもしていてもしょうがないので、修正を経た現状の文面をベースに話を進めて頂ければと思います。
    ●「認定された事実」と扱われるべき~について。当事者間の共通認識に沿って書く事に、ガイドラインや方針があるとは思いませんでしたすみません(笑)。ガイドラインを作るにあたって、膨大になりすぎることを避けるためにどこまでを「わざわざ設定する必要のない常識」として扱いうるかは存外難しい問題ではありますが。解釈が分かれるような話でもない、当事者も確認した「誰もが検証可能なケアレスミス」を、「ミスであると認定された事実」とした上で書くことは、もはや常識の範疇だと認識しておりました(笑)。いちおう今の文面でも、そのあたりは最大限、配慮した上で「篠田教授が~と指摘し、岩波は~と回答したとされる」という形で書いてありますけどね。
    ●吉次氏の記事の当該部分は、すべて同じブログ記事を元にしています。従って参考リンクは文末に1つ付ければ十分だと考えますが、「いささか驚くべき事情が判明した。」等、引用のある各文末ごとに必要だということであれば、修正して下さいませ。--困ったもんだ会話2019年1月12日 (土) 21:07 (UTC)[返信]
  • 返信  お世話になります。まず、困ったもんだ様が先般の返事で記述された『「認定された事実」と扱われるべき~について。当事者間の共通認識に沿って書く事に、ガイドラインや方針があるとは思いませんでしたすみません(笑)。』について、Wikipediaには全ての記事・全ての執筆者が尊重するべき、従うべきとされるWikipedia:方針とガイドラインがあります。まだ、初心者である困ったもんだ様が全ての方針・ガイドラインに目を通して完全に理解するべきというには無理がありますが、今後、記事を執筆される際には内容に関係しそうな方針・ガイドラインに目を通していただけると、より良い記事ができるものと思います。また、『解釈が分かれるような話でもない、当事者も確認した「誰もが検証可能なケアレスミス」を、「ミスであると認定された事実」とした上で書くことは、もはや常識の範疇だと認識しておりました(笑)。』という記述については、WP:YESPOV論争の余地のない主張を単なる意見として記さないにあるとおり、今回の記事では問題がないと私は考えています。(また、度々お伝えさせていただいてますがその件については指摘しておりません。)ただ、それを”常識の範疇だと認識していた”といってしまうと、それこそ偏った考えを持つ方が「誰もが検証可能なケアレスミスなんだから、これは真実だと見なしていいだろ」といって拡大解釈された内容が記述され、まさに「不誠実な側への過度の忖度」を認めることになります。困ったもんだ様が考える「真実」観も尊重されるべきですが、それはあくまでWikipediaでは方針とガイドラインの範囲内で認められるものだとご理解いただけると幸いです。--従六位上河内介会話2019年1月14日 (月) 11:45 (UTC)[返信]