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利用者‐会話:兄卵妹卵

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富永口合戦について

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はじめまして、故城一片之月です。 『諸士由緒記』にみられる永禄3年(1560年)富永口合戦は、私は未調査です。一般にと言って良いか、「富永口合戦」は永禄5年(1562)2月に今川氏真自身が東三河に出陣(兵力は1万六千ともいう)した際、牛久保衆で牧野氏宿老の稲垣重宗(平右衛門尉)を道案内に設楽郡富永方面に今川の兵力を分かち、松平方(おそらく山家三方衆)相手に富永口で戦いとなり、稲垣重宗が首級をあげて感状をうけたその戦いがよく知られています。 その後、牛久保城主牧野成定が今川氏に富永在番を命じられ、しばらくこの方面で主に松平方の菅沼氏・設楽氏相手に戦ったようです(『御邑古風談』など)。 しかし、永禄3年時点では松平元康は今川方であり、山家三方衆もまだ今川方でした。はたして富永口で戦があったかどうか疑問です。私個人はこの点をまだ追究してませんのでしかとはお答えできません。

永禄4年4月11日夜から12日にかけての牛久保城をめぐる戦いは、この今川氏真出陣の動機になったと考えられる戦いです。松平家康は永禄4年の正月に東三河出陣を決定、二ヶ月以上をかけて山家三方衆の調略も含む準備と布陣をすすめ、宝飯郡一宮の砥鹿神社付近に一宮砦を設け、これに本多信俊(百助)率いる松平兵六百名を置いて橋頭堡とし、八名郡の西郷氏の調略を待って、4月11日に満を持して夜襲をかけたと考えられます。したがって、土豪衆の襲来というのは曖昧な表現であり、実は東三河国人の設楽氏・野田菅沼氏・西郷氏が関与していたと思われるが、また牛久保城夜襲の本隊は本多信俊の、松平正規軍であったと思います。本多信俊の松平軍は一宮砦守備兵を残さねばならず、せいぜい雑兵・賦役の人員含め数百名程度と思われそれ故に真木氏の予想外の奮戦に阻まれ、また稲垣重宗の調略にも成功せず(稲垣林四郎は松平方に引き入れ成功)、稲垣重宗も牛久保城防戦に加わって、結局失敗に終わった。 今川氏真は4月13日にはこの事実の報を知り、14日には真木氏に一枚目の感状を早くも与え、数日の内に敵が松平蔵人(つまり元康=家康)とわかり激怒した。 さきにのべた永禄5年2月の氏真出馬の目的はこの一宮砦の攻略と山家三方衆の制圧にあった。しかし、これも、松平元康(家康)自身の出馬に妨げられ大敗してしまいました。一方、元康も一宮砦は放棄し本多信俊の救出のみで、東三河の早期制圧は成功しなかったのです。(なお、一宮砦攻防戦は永禄7年説もあるが私はこれを支持していない)以上です。故城一片之月 2007年3月1日 (木) 15:38 (UTC)[返信]


牧野保成

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すみません、私が編集中で、編集競合となりました。--故城一片之月 2007年3月13日 (火) 16:39 (UTC)[返信]


メールの件

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ウィキペディアのメールは今まで使ったことないので、今調べて見ましたがこの画面左側の「利用者にメールを送信」で使えるようですね。--故城一片之月 2007年3月30日 (金) 16:37 (UTC)[返信]


御案内

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こんにちは。本日、[編集] 利用者:時空の旅人(会話/履歴) 利用者:オタスケマン(会話/履歴)氏への投稿ブロック依頼が提出されたので、お知らせに参りました。Wikipedia:投稿ブロック依頼 2007年4月でご確認いただけるよう御案内いたしますので宜しくお願いいたします。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 13:01 (UTC)[返信]

4月11日のご質問について

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今晩は、故城一片之月です。遅くなりましたが、お返事。

牧野氏(松井系)著名人について 近代以降について同氏の系統に著名人が輩出したかどうか正直、把握していません。 長岡市(市史編纂室)などが公表した資料集などみても見かけたことはなく、私は近世以前の史料については目にしており追求も可能でした。同族とされる遠州系松井氏については陸軍大将で関東軍司令官であった松井石嶺が最も著名で(いわゆる南京虐殺当時の最高指揮官であった。もっとも松井石嶺自身は虐殺を命令した覚えはないと無罪を主張した一方、最高指揮官としての責任を甘受して死罪となったという。)その伝記は最近、遺族の方が出版されたので閲読できました。その程度です。

牛窪記のページにおける時空の旅人氏の投稿・編集についてのお尋ね これは直接本人にあってじっくり話しでも伺わない限り真意(本音・意図)は単に文字ヅラだけでは分からない様な気がします。従って文字ヅラでのわたしの印象をを述べるのみですが、寛政重修諸家譜の牧野氏の系譜・伝記は「自己申告」(→正しくは「呈譜」という)なので私的なもので信頼性は置けない。というのが彼の主張の趣旨に見える。しかし、その見解は大きな誤謬と予断ではないかと考えます。それは、

  1. ある氏族の系譜・家伝はその氏族が伝承し提出したものでなければ知りうる手段は殆ど皆無であるから幕府への「呈譜」は当然でありそれ自体は信頼性を判断する論拠ではない。
  2. 「呈譜」の用語で分かるように、寛政重修諸家譜の編集は江戸幕府が主催した当時の公的編纂事業であって、その成果である寛政重修諸家譜こそはその当時の公式の出版物である。これを信頼できないあるいは公的でないとするなら何を公的とし、信頼するのか?
  3. 同じ幕府の公的編纂物かつ系譜集でも寛政譜の170年前に編纂された「寛永諸家系図伝」が呈譜や証拠資料をほぼそのまま所載したため、大名各氏により内容の粗密や信頼性にばらつきが大きいのに対し、「寛政重修諸家譜」は大名家のみならずその庶流の旗本家の呈譜も求め、しかも、幕府御用学者林述斎以下60名以上の編集スタッフで延べ14年間(寛永諸家系図伝の約2年間より入念である)をかけ比較考量し、訂正を加え疑わしきは按文にその見解をのべたり、各項前文にその家のみの伝承として併記するなど、単なる「呈譜」の掲載とは異なりその意味での客観性は江戸時代のものとしては極めて高い(もっとも徳川家の史観に大きく矛盾する場合は改編されている可能性もある)。

以上の理由から「呈譜」=自己申告→「寛政重修諸家譜は信頼できない」は成り立たないとおもいます。

彼が『牛窪記』より信頼を置く、『信長記』(小瀬甫庵著)はこれこそ全編創作度の高い読み物として執筆されたものであり、むしろ太田牛一著の『信長公記』のほうが史料として信頼性が高いとされるのは日本史における一般的見解です。それでも私が「馬印」において『信長記』の元亀以降採用説を異議ないとしたのは史料価値評価に100%否定・100%肯定はあり得ないと思うからであり、現時点で徳川家の馬印使用開始に言及する史料が極めて少ないと思われるからです。
時空の旅人氏が信頼を置くとする史料に「武鑑」・「秘鑑」の類がありますが、「武鑑」は江戸時代の民間出版物でありその正確性は括弧付きとされています(時代によりばらつきがある)。「秘鑑」のうち『柳営秘鑑』というものをとりあげているが、これは柳営(=幕府)という語が付されているので公的編纂物のように取り扱われているが、江戸幕府の公式編纂物としての紹介は私は見たことがない。直参旗本の一人が主著者らしいが(個人編纂ではないか)。これとあわせ、『牛窪記』は東三河の地元の人間が書いた(かもしれない)から信頼できない、郷土史だから(公的史料ではないから)信頼できない、という論点・視点が著しく公平性を欠いた史料評価であることはお解り頂けると思います(郷土史が地元の歴史と人物を中心にとりあつかうのは当然である)。

『牛窪記』を軍記物とし(続群書類従の合戦の部に掲載がその理由)、軍記物=時代小説という見解(辞書にそう書いてあるという理由)から全く信頼できないとしている。続群書類従の合戦の部に掲載されているとしても、他で『牛窪記』を軍記物として紹介する例は見たことが無く、仮に軍記物としても軍記物がいわゆる時代小説と同等であるから史料として無価値であるということが極論であることは、軍記物とされる例えば『太平記』や『今川記』のように史料価値を重視されているものが幾つもあることからも明白であります。史料評価は他の史料・歴史的遺物との比較(同時代文書・発掘成果・史跡・建造物・金石文等)による多方面からの検討により決まる物で一面的に捉えるべきではないでしょう。

長い説明ですみませんが、つまり、史料評価の観点が時空の旅人氏の独自の考え方によるものであり、しかも観点に揺らぎがある(『甲陽軍鑑』を信頼できないとしたりできるとしたりするように、あるいは山本勘助出身説について八名郡賀茂出身説は豊橋だから信頼できず、牛久保説の方が信頼できるとしながらも『牛久保密談記』は『牛窪記』の訂正増補だから信頼できない等)ことがわかりにくい原因だと感じています。--故城一片之月 2007年4月13日 (金) 15:23 (UTC)[返信]