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分部光弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
分部光弘
時代 江戸時代中期
生誕 安永9年(1780年
死没 寛政9年8月5日1797年9月24日
別名 甚三郎[1]、隼人(通称)[1]
戒名 天桂院性岳宗芳[1]
墓所 東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院[1]
近江大溝藩世嗣
氏族 分部氏
父母 分部光実本多正珍娘・桂雲院
兄弟 光弘光邦、唯之助、溝口勝匡
池田長溥小出英筠継室、
田沼意留継室、安部信操正室、
森川俊知継室、長岡義之室、
高力某養女、久留某養女
松平直紹娘・千寿院
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分部 光弘(わけべ みつひろ)は、江戸時代中期の近江国大溝藩の世嗣。

生涯

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安永9年(1780年[1]、8代藩主・分部光実の嫡男として誕生[1]。母は光実正室の本多氏(本多正珍の娘)[1]

寛政8年(1796年)、11代将軍・徳川家斉に拝謁[1]。しかし、翌寛政9年(1797年)8月5日に早世した[1]。享年18[1]

正室に松平直紹の娘を迎えており[1]、夫妻の間には娘がいた[1]

分部家は、弟・光邦が継ぐこととなった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.8、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.8。