分部光弘
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 安永9年(1780年) |
死没 | 寛政9年8月5日(1797年9月24日) |
別名 | 甚三郎[1]、隼人(通称)[1] |
戒名 | 天桂院性岳宗芳[1] |
墓所 | 東京都港区赤坂の種徳寺塔頭の松渓院[1] |
藩 | 近江大溝藩世嗣 |
氏族 | 分部氏 |
父母 | 分部光実、本多正珍娘・桂雲院 |
兄弟 |
光弘、光邦、唯之助、溝口勝匡、 池田長溥、小出英筠継室、 田沼意留継室、安部信操正室、 森川俊知継室、長岡義之室、 高力某養女、久留某養女 |
妻 | 松平直紹娘・千寿院 |
分部 光弘(わけべ みつひろ)は、江戸時代中期の近江国大溝藩の世嗣。
生涯
[編集]安永9年(1780年)[1]、8代藩主・分部光実の嫡男として誕生[1]。母は光実正室の本多氏(本多正珍の娘)[1]。
寛政8年(1796年)、11代将軍・徳川家斉に拝謁[1]。しかし、翌寛政9年(1797年)8月5日に早世した[1]。享年18[1]。
正室に松平直紹の娘を迎えており[1]、夫妻の間には娘がいた[1]。
分部家は、弟・光邦が継ぐこととなった。