准秀
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准秀 | |
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1607ー1660年 | |
法名 | 昭超 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 本願寺派 |
寺院 | 興正寺 |
著作 | 『安心相違覚書』 |
准秀(じゅんしゅう、1607年5月30日(慶長12年閏4月5日) - 1660年11月14日(万治3年10月12日))は、江戸時代前期の浄土真宗の僧。京都興正寺第19世。法名は昭超。
概要
[編集]経歴
[編集]興正寺第18世准尊の第四子、次男として京都に生まれる[1]。母は毛利輝元の養女。幼名岩丸。元和7年(1621年)、15歳で西本願寺にて得度。翌元和8年(1622年)、父准尊の死により、興正寺第19世となる。寛永5年(1628年)12月、大僧都となり、同月に西本願寺准如の五女と結婚した。寛永9年(1632年)、権僧正となる[2]。
承応の鬩牆 ()に関与
[編集]1653年(承応2年)、西本願寺能化・西吟と肥後国延寿寺・月感との間に宗論が起こった。月感の姻戚であった准秀は彼を支持して『安心相違覚書』を著したところ、これに対して西本願寺門主・良如が『破安心相違覚書』を著して准秀を批判する事態に発展し、両者は江戸幕府の裁判による裁決を求めた(承応の鬩牆)。
最終的に幕府の裁定により、准秀は越後国今町に流罪とされたが、1658年(万治元年)に赦免された。1660年11月14日(万治3年10月12日)、54歳で死去した。