冨士田吉次
冨士田 吉次(ふじた きちじ)は、江戸長唄唄方の名跡。冨士田吉治と表記する場合もある。
初代
[編集](正徳4年(1714年)? - 明和8年3月29日(1771年5月13日))
俳名・楓江。江戸乗物町伏見屋の色子として、その主人の初代都太夫和中から一中節を学ぶ。その後歌舞伎役者・佐野川萬菊の弟子となり、佐野川千蔵を名乗る、歌舞伎時代は若衆形から若女形になる。宝暦7年(1757年)11月に一中節太夫になり、2代目都太夫和中を襲名。宝暦9年(1759年)ふじ田吉次郎を名乗り、長唄唄方に転向、宝暦10年(1760年)に藤田吉次の名で立唄に昇進、宝暦12年(1762年)冨士田吉次、ついで吉治と改名。大薩摩、常磐津浄瑠璃との掛け合い、唄浄瑠璃の創始などに業績を残し、「鷺娘」「吉原雀」などを作曲、長唄史上に功績を残した。
2代目
[編集](弘化2年10月7日(1845年11月6日) - 大正8年(1919年)4月19日)本名は上松吉兵衛。
甲斐国甲府(現在の山梨県)の生まれ、父は常磐津節の常磐津音羽太夫。3代目松永和楓や岡安源次郎に師事。初名は岡安小源次、上京し松永鉄十郎の名で鳥越の中村座、新富座、明治座等に出勤。5代目富士田千蔵から許可を得て1899年に6代目千蔵を襲名し立唄となる。1904年ごろに途絶えていた2代目吉次を襲名。
実の子が5代目富士田音蔵、3代目吉次。
3代目
[編集](明治10年(1877年)8月11日[1] - 昭和25年(1950年)6月11日[2])本名は上松たね。
東京府牛込神楽町(現・東京都新宿区神楽坂)出身[1]。2代目吉次の娘。2代目没後まもなく襲名。
4代目
[編集](明治40年(1907年)11月20日[3] - 昭和52年(1977年)3月10日)本名は上松須寿子。