内藤広泰
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元和4年8月2日(1618年9月20日) |
改名 | 内藤伊勢寿(幼名)→内藤広泰 |
別名 |
内藤元廉 通称:六蔵→五郎兵衛尉 |
戒名 | 玉峯道珠 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤姓内藤氏 |
父母 | 父:内藤元泰、母:熊谷直清の娘 |
兄弟 | 広泰、女(児玉元道室)、元幸、元友、恒安、吉盛 |
妻 | 内藤元栄の娘 |
子 |
女(飯田就重室)、女(馬屋原元貞室、藤林惟清室)、伊勢福(内藤就久の妻) 養子:就久(内藤元勝の次男) |
内藤 広泰(ないとう ひろやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。毛利氏の家臣で、長州藩士。父は内藤元泰。
生涯
[編集]毛利氏の家臣である内藤元泰の嫡男として生まれる。はじめは六蔵を名乗ったが、文禄5年(1596年)5月5日に輝元から五郎兵衛尉の仮名を与えられた。
文禄・慶長の役では広泰も渡海しており、慶長3年(1598年)1月27日付の毛利輝元からの書状で、蔚山での普請を油断無く済ませた後帰国するよう命じられた。また、慶長2年(1597年)5月5日、父・元泰から所領を譲られている。
元和4年(1618年)8月2日に死去した。広泰には男子がいなかったため、同年12月に内藤元勝の次男・就久(当時は幼名の道祖法師)が広泰の娘・伊勢福と婚姻し、婿養子として広泰の跡を継いだ。