内田周平
内田 周平(うちだ しゅうへい、1857年12月26日〈安政4年11月7日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月23日[1])は、日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾・大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。
字は仲準。号は遠湖(内田遠湖)・遠湖釣者・帆影子。堂号は谷門精舍。
生涯・人物
[編集]1857年(安政4年)、遠江国浜松にて、漢学者兼蘭法医の父のもとに生まれる[2]。生年を1854年(安政元年)とする文献もあるが誤りとされる[3]。
1875年(明治8年)、上京し本郷壬申義塾でドイツ語を学ぶ[1]。1876年外国語学校入学[1]。1877年東京大学医学部予科入学、1881年本科進学[1]。1884年末に医学部を退学し、1885年文科大学支那哲学選科2年に転入学[1]。島田篁村の指導のもと、1886年卒業[4]。
1887年(明治20年)、友人の井上円了が哲学館(後の東洋大学)を創設すると教授となり[5]、中国哲学やハルトマン美学を教える[6]。1888年から、生活費を補うため徳富蘇峰主催の『国民之友』などの雑誌に、ヴィンケルマン、レッシング、ジャン・パウル、アルント、ゲーテ、シラー、ベルネ、カントなど、ドイツ哲学・文学の抄訳紹介を寄稿する[7][8]。また私塾を開き漢学を教える[9]。1891年には学習院にも出講する[9]。この頃、井上哲次郎[10][11]や森鷗外[5]と議論を交わす。
1892年(明治25年)、井上毅の斡旋により、熊本の第五高等学校教授となる[12]。その傍ら、長崎針尾島に住む崎門派の楠本碩水(楠本端山の弟)と親交し、崎門派朱子学に傾倒するようになる[12]。内田は、朱子学を西洋哲学に対峙するために必要な思想と考えていた[5]。
1897年(明治30年)、熊本から東京に戻り、私塾「正誼塾」を開く[5][13]。以降晩年まで、哲学館・慶應義塾大学・東京帝国大学・東京高等師範学校・國學院大學・郁文館中学・国士舘専門学校・大東文化学院などで教えた[5][13]。哲学館は累計37年間、慶應義塾は25年間にわたり務めた[3]。大東文化学院では、1923年(大正12年)創設時の初代理事も務め[14]、松平康國や牧野謙次郎とともに漢学を教えた[15]。1925年、総長の井上哲次郎が運営改革を断行すると、他の教授とともに私学派として反発した[16]。
1940年(昭和15年)、無窮会が東洋文化研究所を創設すると、最年長の講師となる[17]。
1944年(昭和19年)没。享年88。雑司ヶ谷霊園に墓がある[5]。揮毫は平泉澄[5]。
内田は生涯にわたり、政治運動にも関わり続けた。例えば、条約改正反対[18]、漢文教育廃止反対[5]、乃木家再興反対[5]などを主張した。南北朝正閏問題では南朝正統論を掲げ、三塩熊太らと大日本国体擁護団を結成、犬養毅と接近し、国定教科書を改訂させた[19][20]。
教えを受けた人物に、崎門派の近藤啓吾をはじめ、戸川秋骨・若宮卯之助・山本信哉・秦豊助・内田銀蔵・上田敏・福田徳三・大野洒竹・鳥居素川・山本信哉・神崎一作・青木昌吉・白河鯉洋・春山作樹・宇野哲人がいる[5][21]。
竹山道雄は甥[22][23]、中村與資平は妻の妹の夫にあたる[24]。
主な著作
[編集]- 『寛政三博士の学勲』
- 『崎学闡明文略』
- 『遠湖文髄』
- 『老荘学講義』[25] - 『哲学館講義録』の一篇[26]。1888年刊[26]。簡略ながらも中国哲学史を叙述した最初期の例とされる[26][25][27]。
- 『招邀朝鮮儒生記』 - 李退渓の子孫ら朝鮮の儒者が東洋大学を訪問したときの漢文記録[28]。
- 『浜松城墟記』 - 廃墟となった浜松城についての漢文記録[29]。
- 『矢口謙斎伝』 - 矢口謙斎の伝記。
- 『薑園歌文鈔 佐久良君碑』 - 佐久良東雄の歌文の編纂。
脚注
[編集]- ^ a b c d e “内田周平関係資料 | 東京大学学術資産等アーカイブズポータル”. 東京大学. 2022年9月30日閲覧。
- ^ “浜松市史 三”. 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ. 浜松市立中央図書館. 2022年9月29日閲覧。
- ^ a b 福田 1988, p. 15.
- ^ 柳田 1944, p. 557.
- ^ a b c d e f g h i j 有安 2008.
- ^ 『内田周平』 - コトバンク
- ^ 国信浩洋「明治期におけるヴィンケルマン受容史」『日本医科大学雑誌』第57巻、第6号、日本医科大学、1990年。doi:10.1272/jnms1923.57.562 。563頁。
- ^ 柳田 1944, p. 558.
- ^ a b 柳田 1944, p. 560.
- ^ 水野博太「『篁村遺稿』から見る漢学者・島田重礼 東京大学草創期における「支那哲学」形成の隠れた立役者」『東京大学草創期とその周辺:2014ー2018年度 多分野交流演習「東京大学草創期の授業再現」報告集』東京大学大学院人文社会系研究科、2019年。202頁。
- ^ 大島晃「井上哲次郎の「性善悪論」の立場 「東洋哲学研究」の端緒」『ソフィア 西洋文化ならびに東西文化交流の研究』第42巻、第4号、上智大学、1994年。 NAID 110000168858 。577頁。
- ^ a b 柳田 1944, p. 561.
- ^ a b 柳田 1944, p. 562.
- ^ 中林史朗. “遠湖内田周平、行書七絶”. www.ic.daito.ac.jp. 2022年9月30日閲覧。
- ^ “大東文化学院初代総長・平沼騏一郎 | ヒストリア | 大東文化大学の歴史 | 2023年、大東文化大学は創立100周年”. 大東文化大学百年史編纂. 2022年9月30日閲覧。
- ^ 浅沼薫奈「井上哲次郎と大東文化学院紛擾 : 漢学者養成機関における「皇学」論をめぐって」『東京大学史紀要』第27巻、東京大学史史料室、2009年。33-35頁。
- ^ 浅沼薫奈「池田英雄著『修学の道場回想録 -七十年前の想い出の糸をたぐりて-』(承前):「大東文化学院」と「財団法人無窮会」との「分身同心」について」『大東文化大学史研究紀要』第4巻、大東文化大学百年史編纂委員会、2020年。75;86-88頁。
- ^ 柳田 1944, p. 563.
- ^ 『内田 周平』 - コトバンク
- ^ 千葉功「南北朝正閏問題再考」『学習院史学』学習院大学史学会第57号、2019年。58頁。
- ^ 柳田 1944, p. 560;562.
- ^ 土田 2014, p. 228;245.
- ^ 竹山道雄「最後の儒者」『竹山道雄著作集』4、NAID 40001383047 / 平川祐弘「江戸の家庭、明治の家庭」NAID 40003386506
- ^ “中村與資平関連資料”. 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ. 2022年10月1日閲覧。
- ^ a b 佐藤将之「近代日本における中国哲学の誕生 明治十年代に東京大学で行われた諸講義を中心に」、廖欽彬;伊東貴之;河合一樹;山村奨 編著『東アジアにおける哲学の生成と発展 間文化の視点から』法政大学出版局、2022年 ISBN 978-4-588-15123-1 653;661;667頁。
- ^ a b c 水野博太「19世紀末における漢学と「支那哲学」 服部宇之吉の学問的可能性と清国留学への道程」『思想史研究』第21号、日本思想史・思想論研究会、2015年。58頁。
- ^ 曹峰 (2016). “對內田周平的重新認識” (中国語). 臺灣東亞文明研究學刊 13 (2). doi:10.6163/tjeas.2016.13(2)75. ISSN 1812-6243 .
- ^ 佐藤厚「1920年、朝鮮儒者の東洋大学訪問」『井上円了センタ一年報』第28巻、東洋大学井上円了研究センター、2020年。doi:10.34428/00011848 80頁。
- ^ “浜松市史 ニ”. 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ. 2022年10月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 土田健次郎『江戸の朱子学』筑摩書房〈筑摩選書〉、2014年。ISBN 978-4480015907。
- 福田殖「楠本碩水 : 九州における最後の崎門学者」『中国哲学論集』第14巻、九州大学中国哲学研究会、1988年。doi:10.15017/18106 。
- 藤井倫明「被遺忘的漢學者:近代日本崎門朱子學者內田周平學思探析」(中国語)『中正大學中文學術年刊』第17巻、國立中正大學中國文學系、2011年 。
- 柳田泉 著「明治文學と内田遠湖先生」、尾佐竹猛 編『明治文化の新研究』亜細亜書房、1944年。doi:10.11501/1041889。NDLJP:1041889/286