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六中観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

六中観(りくちゅうかん)は、陽明学者であり、昭和史の黒幕と言われた安岡正篤座右の銘である。安岡は著作で「私は平生ひそかにこの観をなして、いかなる場合も決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」と述べる。

内容

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解説は、安岡の著作による注。

  • 一、忙中閑あり 「ただの閑は退屈でしかない。ただの忙は文字通り心を亡ぼすばかりである。真の閑は忙中にある。忙中に閑あって始めて生きる」
  • 二、苦中楽あり 「いかなる苦にも楽がある。貧といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある」
  • 三、死中活あり 「死地に入って活路が開け、全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すのである。のらくらと五十年七十年を送って何の生ぞや」[1]
  • 五、意中人あり 「常に心の中に人物を持つ。或いは私淑する偉人を、また要路に推薦し得る人材をここというように、あらゆる場合の人材の用意」
  • 六、腹中書あり 「目にとめたとか、頭の中のかすような知識ではなく、 腹の中に納まっておる哲学のことである」[3]

備考

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  • 六観で良いところを、「中」の字を入れたことに関しては、安岡の説明から、「調和していき、融合し、一体化する」といった意味があったと考察されている[4]

脚注

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  1. ^ 安岡正篤著「新憂樂志」
  2. ^ 費長房は市場の役人だったが、ある日役所の窓から見える通りで店を出している薬売りの老人が、夕暮れに店をたたむと、店先の壷のなかに入っていくのを目撃した。翌日、費長房が老人に昨日のことを尋ねると、老人は実は自分が仙人であることを明かし「見られたのなら、仕方がない」と壷の中に入れてくれた。壷の中には珍味を並べた別天地があり、酒を酌んで大いに楽しみを尽くしたという。
  3. ^ 安岡正篤著「百朝集」
  4. ^ 深澤賢治 『陽明学のすすめⅡ 人間学講話「安岡正篤・六中観」』 明徳出版社 2008年 ISBN 978-4-89619-192-9 p.92.