八幡神社 (恵那市岩村町)
八幡神社 | |
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所在地 | 岐阜県恵那市岩村町大路18番地 |
位置 | 北緯35度21分29秒 東経137度26分48.5秒 / 北緯35.35806度 東経137.446806度座標: 北緯35度21分29秒 東経137度26分48.5秒 / 北緯35.35806度 東経137.446806度 |
主祭神 | 主祭神:誉田別尊(応神天皇)<br>配神:加藤景廉 |
社格等 | 旧郷社 |
例祭 | 10月第一 土・日曜日 |
主な神事 | 神輿渡御 |
八幡神社(はちまんじんじゃ)は、岐阜県恵那市岩村町大路に鎮座する神社。
なお岩村町には富田に八幡神社が2社存在し、飯羽間に1社が存在する。
祭神
[編集]主祭神
[編集]- 誉田別尊(応神天皇)
配神
[編集]摂末社
[編集]- 秋葉神社
- 音羽稲荷神社
歴史
[編集]八幡神社は、元は岩村城内の八幡曲輪にあった。
岩村城を築城したとされる加藤景廉が、築城と同時に誉田別命を祭神として城内鎮守の神社としたとされる。
岩村藩神明調に承久年中鎮座とあるのは、岩村城築城したとされる加藤景廉が、承久3年(1221年)に没したので、景廉も配神として祀り座像を安置したことを指している。加藤景廉公の木像は、岩村歴史資料館に保管されている。
寛永8年(1631年)に岩村藩主の松平乗寿が壮大な社殿に建て替えた。
城中にあったため、民間人の参拝は許されなかったが、苗木藩主の苗木遠山氏と旗本の明知遠山氏の関係者は毎年参拝を認められていた。
元禄15年(1702年)、松平乗紀が信州の小諸藩から国替で岩村藩主に移った時に、小諸から薬師寺を別当寺として、岩村城内に移し、八幡神社の前に拝殿に沿って巫僧と神官とが共に奉仕した。
明治元年(1868年)の神仏分離の際に薬師寺は廃寺となった。
廃藩置県により岩村城が廃城となることが決まったため、明治5年(1872年)11月に、岩村城の八幡曲輪から現在地に遷座した。
祭事
[編集]寛永8年(1631年)に岩村藩主の松平乗寿が創始した「神輿渡御」は、岩村町の武並神社#恵那市岩村町の武並神社に配神として祀られている景廉の長男の遠山景朝が御輿に乗って八幡神社の父景廉に会いに行く、それに大勢の町民が供奉するという神輿渡御行列である。
景朝のご神体を神輿に乗せ、時代衣装を身にまとった総人員約300人が長さ300mに及ぶ行列を整えて武並神社を出発し、岩村町本通り(重要伝統的建造物群保存地区)を約1.7kmを練り歩き、神輿を景廉が配神として祀られている八幡神社へ運ぶ。
神輿は八幡神社にて、親子対面を 果たして一夜を過ごし、翌日、再び神輿は行列によって武並神社に帰る。
行列中の御神馬に使用する飾馬具は、天保年間の頃のものが使用されている。
行列の役割・内容などは嘉永5年(1852年)の「武並宮御祭礼規定」にある次第と基本的に変化していない。
文化財
[編集]神輿渡御行列
[編集]岐阜県の重要無形民俗文化財
棟札
[編集]昭和43年(1968年)8月6日、◎印のみ岐阜県の重要文化財に指定された。
- ◎永正五年[1]十一月 遠山頼景 代官 近藤六郎右ェ門
- ◎天文十六年[2]霜月十日 遠山景前 遷宮師 法師良弁
- ◎元和八年[3]霜月 松平乗寿 神主 沼田両太夫
- ◎寛永八年[4]四月 松平乗寿 大工 清水藤兵衛
- 寛永八年五月 松平乗寿 大工 大原武廣
- 寛文四年[5]五月十五月 丹羽氏純 奉行 波多田源五兵衛
- 貞享二年[6]十一月朔日 丹羽氏明 奉行 藤原重吉
- 享保六年[7]八月廿八日 松平乗賢 奉行 岩松貞知
- 天明三年[8]六月廿八日 松平乗保 神主 家永
- 享和二年[9]九月廿八日 松平乗保 神主 沼田永信
絵馬
[編集]歴代城主が奉納した絵馬が岐阜県の重要文化財に指定されている。
- 慶長年間[10] 松平乗寿 伝古法眼元住筆 神馬
- 寛永十一年[11] 丹羽氏純 筆者不明 樹上鷲
- 貞享元年[12] 丹羽氏明 筆者不明 七福神
- 元文二年[13] 松平乗賢 狩野洞琳筆 神馬
- 安永六年[14] 松平乗薀 狩野洞壽筆 神馬
- 文化五年[15] 松平乗保 狩野洞琳筆 神馬
- 文化十一年[16] 松平乗保 狩野洞琳筆 神馬
- 天保三年[17] 松平乗美 上野元満筆 日出鶴
- 天保十五年[18] 松平乗喬 加藤泰跡筆 日出鶴
- 元治元年[19] 松平乗命 董川法眼筆 神馬
神宝
[編集]参考文献
[編集]- 『岩村町史』 一八、江戸時代の宗教 2 江戸時代神社 城山八幡宮 p285~p288 岩村町史刊行委員会編 1961年
- 『恵那郡史』 加藤護一 編 恵那郡教育会 大正15年
- 『女城主の里 いわむら』 城下町コース 八幡神社 p61 岩村町企画観光課 平成5年