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入谷南公園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

入谷南公園(いりやみなみこうえん)は、東京都台東区松が谷(旧;入谷町)にある児童公園(現・街区公園)。日本住宅公団所属の造園技師であった池原謙一郎(のちに筑波大学教授)による1958年から1959年にかけての設計作品である。面積は3,910.02㎡。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の舞台にもなったほか[1][2][3][4][5][6]、比較的利用率の高い公園として[7]、また帰宅支援場所の役割を果たした都市公園として[8]知られる。

概要

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高度経済成長下、日本の都市域では深刻な住宅不足が顕在化した。そのような問題を受け、1955年(昭和30年)に日本住宅公団が設立された。公団は当時、年間に1つから35戸の集合住宅団地を供給していたが住宅公団が採用した居室は、新しい生活様式の普及を促進した。その団地の屋外空間として誕生したのが集合住宅の住棟間のオープンスペース「団地造園」であり、居住者が安全に通行できる歩行者専用道すなわち「ペデストリアン·スペース」が線状の緑地を形成し、要所に子どもの遊び場として「プレイロット」が配置されていた。

この時期特に子どもの遊び場は、住宅公団や建設省の造園技師などによって多面的に研究されることとなる。1957年(昭和32年)には「遊び場の研究会」が池原と北村信正(東京都)の肝煎りで発足する。建築家の小川信子のほか、川本昭雄田畑貞寿などの造園家が多数参加した。

この研究会は毎月討論会を設けて遊び場に関する議論を交わし、池原謙一郎によりその成果として、当園が生み出された[9]

当園では「プレイ・スカルプチャー」という観念のもと[10]、高さ4メートルの「緑の山」、お椀を伏せたような「石の山」、すり鉢状の「子供センター」など、斬新な空間造形を施したものが並べられた。

評価

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ユニークな遊び場をもつ公園として全国的に有名となる[11]。石の山は話題となり、池原がNHK「朝の訪問」に出演することにもなった[12]

アクセス

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東京都台東区松が谷3丁目23番7号、北上野2丁目13番1号(入谷南ポケットパーク)[13]

脚注

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  1. ^ エコノミスト』第64巻、第37 - 46号 、毎日新聞社、1986年[要ページ番号]
  2. ^ 本橋(2010)[要ページ番号]
  3. ^ 石山他(2001)[要ページ番号]
  4. ^ 『科学捜査』主婦の友社、2010年[要ページ番号]
  5. ^ 『テレビドラマ代表作選集』日本脚本家連盟, 1980年
  6. ^ 本田(2001)[要ページ番号]
  7. ^ 小沢 知雄・久保田 碩子(1965)[要ページ番号]
  8. ^ 『防災公園の計画・設計に関するガイドライン(案) 』平成27年9月改訂版
  9. ^ 小林(2018)[要ページ番号]
  10. ^ 市川(2016)[要ページ番号]
  11. ^ 『台東区史 行政編』東京都台東区、1998年[要ページ番号]
  12. ^ 小林(2002)[要ページ番号]
  13. ^ 区立公遊園等の紹介 台東区公式HP

参考文献

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  • 市川寛也「彫刻の場としての公園に関する一考察―1950年代から60年代にかけての都市公園・児童公園の事例から」大学美術教育学会「美術教育学研究」第 48 号:73–80、2016年
  • 小林治人「代々木公園設計と造景作家・池原謙一郎」『都市公園』No.220(特集 代々木公園開園50周年)東京都公園協会、2018年
  • 小林治人「名誉会員池原謙一郎先生を偲ぶ」『ランドスケープ研究』66巻1号 、社団法人日本造園学会、2002年
  • 小沢知雄・久保田 碩子「公園における“みどり”について」『造園雑誌』1965年2月号(29巻3号)、1965年
  • 池原謙一郎「子供のコアへの提案(入谷南公園)」『都市公園』1959年5月号、東京都公園協会、1959年
  • 石山千代・北沢猛・西村幸夫・窪田亜矢「震災復興小公園と小学校の関係に関する研究」『都市計画論文集』2001年
  • 本橋信宏『60年代郷愁の東京』主婦の友社、2010年
  • 文藝春秋』第55巻 文藝春秋、1977年
  • 本田靖春『本田靖春集〈1〉誘拐・村が消えた』旬報社、2001年
  • 『造園雑誌』第47 - 48巻 日本造園学会、1983年
  • 田畑貞寿・樋渡達也 (編集) 『造園の事典』朝倉書店、1995年
  • 日本造園学会『造園ハンドブック』技報堂出版、1978年

外部リンク

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