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児玉弘義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
児玉 弘義
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県津名郡津名町(現:淡路市[1]
生年月日 (1942-03-13) 1942年3月13日
没年月日 (2009-02-05) 2009年2月5日(66歳没)
身長
体重
172 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1960年
初出場 1961年10月14日
最終出場 1972年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 2009年2月5日[2])は、兵庫県津名郡津名町出身のプロ野球選手捕手)・コーチ

来歴・人物

[編集]

津名高校卒業後、1960年近鉄バファローへ入団[1]

1961年10月14日阪急戦(藤井寺)に8番・捕手で一軍初出場を果たし、初安打も記録。

1963年から試合出場数が増えたが、吉沢岳男の存在もあって2番手の起用が続いた。

1964年8月6日東映戦(日生)では途中から吉沢に替わってマスクを被り、嵯峨健四郎から初本塁打を放つ。三原脩が監督に就任した1968年に初めて正捕手の地位を獲得した。

1969年には岩木康郎にその座を奪われて再び2番手となる。

1970年には辻佳紀の加入で3番手となる。

1971年には規定打席不足ながら自己最高の打率.326を記録。

1972年は49試合出場と盛り返すが、8月2日ロッテ戦(東京)で八木沢荘六から最後の本塁打を放った。同年に現役を引退[1]

引退後も近鉄一筋に二軍アシスタントコーチ(1973年)、二軍バッテリーコーチ(1974年 - 1998年)、育成担当(1999年 - 2001年[3]、「球友寮」寮監(2002年)を歴任[1]。コーチ時代は有田修三山下和彦古久保健二光山英和的山哲也を指導し、近鉄の捕手陣を厚くして3度のリーグ優勝(1979年, 1980年, 1989年)に貢献。オリックスとの合併後はロベルト・バルボンが校長を務める少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」の講師を務めたほか、地元・津名でも野球指導に尽力し、関西メディカルスポーツ学院のコーチ(2006年 - 2008年)も務めた。

2009年2月5日、脳梗塞のため死去。66歳没。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1961 近鉄 2 6 6 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .167 .167 .167 .333
1962 18 26 26 3 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 11 0 .077 .077 .077 .154
1963 60 53 50 6 9 4 0 0 13 2 1 0 0 0 2 0 1 17 0 .180 .226 .260 .486
1964 79 178 163 13 40 2 2 3 55 16 4 3 6 1 8 0 0 37 2 .245 .281 .337 .618
1965 59 106 99 8 20 4 0 2 30 8 1 0 0 0 6 0 1 20 2 .202 .255 .303 .558
1966 88 165 159 5 29 4 1 1 38 8 2 3 0 0 6 0 0 28 2 .182 .212 .239 .451
1967 32 53 52 3 7 1 0 1 11 1 0 0 0 0 1 0 0 7 0 .135 .151 .212 .362
1968 97 213 194 17 49 9 2 3 71 17 2 3 3 1 12 0 3 24 5 .253 .306 .366 .672
1969 66 144 131 9 25 4 1 2 37 11 1 1 3 0 8 1 2 31 2 .191 .248 .282 .531
1970 58 97 85 6 19 1 1 1 25 5 1 1 0 0 9 1 2 14 0 .224 .313 .294 .607
1971 39 46 43 5 14 1 0 2 21 6 0 0 0 0 3 0 0 4 1 .326 .370 .488 .858
1972 49 81 76 2 6 0 0 1 9 4 0 0 1 0 2 1 2 10 1 .079 .125 .118 .243
通算:12年 647 1168 1084 78 221 30 7 16 313 79 12 11 13 2 57 3 11 204 15 .204 .251 .289 .540

背番号

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  • 61 (1960年 - 1962年)
  • 24 (1963年 - 1972年)
  • 66 (1973年 - 1985年)
  • 76 (1986年 - 1998年)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、220ページ
  2. ^ OB NEWS Vol.41” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2009年3月). 2015年7月5日閲覧。
  3. ^ 1999年から2000年は「球友寮」寮監を兼任。

関連項目

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外部リンク

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