兎束武雄
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兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6日 - 1969年(昭和44年)9月18日)日本の音楽家、教育者。バイオリニストで元東京芸術大学教授の兎束龍夫は実弟。
経歴
[編集]長野県上田市松尾町の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれる[1]。1912年(大正元年)3月上田尋常小学校卒業。1919年(大正8年)3月旧制東京芝高輪中学校卒業、4月旧制青山学院入学。在学中に東京楽器研究所入所(山田耕筰主宰)セロ科3年修了。その後も山田耕筰のもとで学ぶ。東洋音楽学校(現東京音楽大学)中退[1]。
1921年(大正10年)志願兵として高田輜重大隊入隊。1922年(大正11年)関東大震災で山田耕筰のオーケストラが解散となり上田へ帰郷。1924年(大正13年4月)旧制岩村田高等女学校(現長野県岩村田高等学校)の音楽指導を兼務[1]。1932年(昭和7年)2月上海事変応召(北支10ケ月)[1]。1933年(昭和8年)関西水害義援金を募るコンサート開催のため「からたち合唱団」結成[1]。結成時の練会場は上田市の梅花幼稚園であった。命名由来は梅花幼稚園の生け垣がからたちであったことにより、上田市初の混声合唱団として現在まで活動を継続している。1939年(昭和14年)5月より支那事変応召再び北支へ。1943年(昭和18年)音楽の授業は戦争により圧迫され軍需会社三童製作所に入社、生産課長、勤労課長となる。この時期、旧制飯山中学(現長野県飯山高等学校)や旧制上田中学(現長野県上田高等学校)に嘱託勤務で音楽を指導する[2]。
1945年(昭和20年)11月上田市で戦後初のクラシック演奏会開催(上田市役所等主宰からたち会後援)、1946年(昭和21年)長野県上田高等学校教諭(音楽担当)。1951年(昭和26年)大阪市立大学グリークラブとからたち合唱団の合同演奏会をスタートさせる[1]。1960年(昭和35年)上田城南高等学校(現上田西高等学校)教諭(音楽担当)。退職後は1963年(昭和38年)4月から1969年(昭和44年)7月まで上田市公民館長に就任した[1]。1964年(昭和39年)弟の兎束龍夫率いる芸大オーケストラを上田に招き、ベートーベンの第九交響曲の初演奏会を実現した[1]。1969年(昭和44年)9月18日上田市にて病没。
作曲
[編集]- 信濃防人の歌 (歌詞万葉集より)
- 信濃の山々
- 山本五十六 (会津八一 作詞)
- 故松尾氏のために (遠藤恭介 作詞)
- 上田高等学校学芸祭の歌
- 丸子実業高等学校(現 丸子修学館高等学校)校歌 (丸子実業高等学校国語科 作詞)
- 上田城南高等学校(現 上田西高等学校)校歌 (野上彰 作詞)等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 故兎束武雄先生追悼演奏会 パンフレット 1970年(昭和45年)8月15日
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年
- 『上田市誌20 人物編 明日を開いた上田の人々』 2003年
- 『上田西高校50年誌』
- 『上田西高校60周年誌』