光陽郡
表示
光陽郡(クァンヤンぐん、こうようぐん、朝鮮語: 광양군)は、大韓民国全羅南道にあった郡。現在は光陽市の一部である。
歴史
[編集]- 940年(太祖23年) - 「馬老」(牟婁)・「曦陽」から現在の地名である「光陽」に改称。
- 983年(成宗2年) - 全国に12の牧を設置と同時に昇平郡が昇州牧に昇格。
- 1108年(睿宗3年)あるいは1172年(明宗2年) - 監務が廃止され、昇州から分離。あわせて18の部曲が光陽郡の管轄になる。[1]
- 1392年 - 李氏朝鮮建国。監務が県監になり、完全に独立な行政単位となった。
- 1597年 - 小西行長の兵隊が光陽邑城を占領したが、全羅兵使・李光岳と求礼県監・李応書が統率した朝鮮兵隊によって奪還。邑城が廃墟になり、県も一時的に順天都護府の管轄下に入った。
- 1600年から1604年 - 廃墟化した邑城の復旧とともに、県が再置された。
- 面里制が敷かれるとともに、県内に12面が成立した。1789年の時点で、県内には3706戸、17586人があり、女性のほうが男性のほうよりやや多い。
- 牛蔵面・沙羅谷面(四谷面)・骨若面(七骨若面)・玉谷面・津上面・津下面・月浦面・多鴨面・七星面・仁徳面・内面・玉龍面
- 1869年(高宗6年)と1889年(高宗26年)に2回の農民蜂起が発生。
- 1894年 - 東学党運動で光陽県内には多くの東学教徒が逮捕・殺害された。
- 1895年6月23日(陰暦閏5月1日) - 二十三府制による行政区域再編で、県制が廃止されるため、光陽郡に昇格し、南原府の管轄となる。[2]
- 1896年
近代・現代
[編集]府令第111号
朝鮮総督府令第111号 旧行政区画 新行政区画 光陽郡四谷面、牛蔵面、七星面 光陽面 光陽郡骨若面 骨若面 突山郡太仁面 光陽郡津下面、月浦面 津月面
- 光陽面・鳳岡面・仁徳面・玉龍面・骨若面・玉谷面・津上面・多鴨面・津月面
- 1915年1月1日 - 多鴨面の一部が慶尚南道河東郡徳陽面に編入。(9面)
- 1925年4月1日 - 仁徳面[5]が光陽面に編入。(8面)
- 1949年8月14日 - 光陽面が光陽邑に昇格。[6](1邑7面)
- 1966年6月1日 - 骨若面太仁里・金湖里を管轄する太仁出張所を設置。[7]
- 1973年7月1日 - 骨若面松獐里が麗川郡栗村面に編入。[8](1邑7面)
- 1983年2月15日 - 骨若面太仁出張所が太金面に昇格。[9](1邑8面)
- 1986年1月1日 - 骨若面・太金面および玉谷面広英里を管轄する全羅南道光陽出張所を設置。
- 1989年1月1日 - 全羅南道光陽出張所の管轄区域が東光陽市に昇格・分離。[10](1邑6面)
- 1995年1月1日 - 光陽郡が東光陽市と合併し、光陽市が発足。これにより光陽郡は廃止。[11]
脚注
[編集]- ^ 大東地誌・光陽沿革條(金正浩編、1864年)地方沿革研究p274(1988)/光陽郡誌p344(1983)
- ^ 勅令第98号・地方制度改正件(1895年陰暦5月26日)
- ^ 勅令第36号・地方制度官制改正件(1896年8月4日)
- ^ 朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)
- ^ 現在の光陽邑徳礼里・道月里・世豊里・仁東里・仁西里
- ^ 大統領令第162号・邑の設置に関する件(1949年8月13日)
- ^ 郡条例第205号(1966年6月1日)
- ^ 大統領令第6542号(1973年3月12日)
- ^ 大統領令第11027号(1983年1月10日)
- ^ 法律第4050号・烏山市等の12市及び泰安郡の設置と郡名変更に関する法律(1988年12月31日)
- ^ 法律第4801号・全羅南道光陽市等の2つの都農複合形態市の設置等に関する法律(1994年12月22日)
朝鮮時代 | 1895年 〜 1989年 | 1989年 〜 1995年 | 現在 |
---|---|---|---|
光陽県 | 光陽郡 | 東光陽市 | 光陽市 |
光陽郡 |