元和偃武
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元和偃武(げんなえんぶ)とは、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す[1]。
同年7月、江戸幕府は朝廷に元号を慶長から元和と改めさせたことで、天下の平定が完了したことを広く宣言したと見られる[2]。
概要
[編集]由来
[編集]偃武とは、中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」に由来し、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めることを指している[3]。初出の時期は不明だが、江戸時代中期以降の儒者の創語だと推定されている[3]。
豊臣家の滅亡よって、江戸幕府による全国支配体制の基礎が確立し、以後は領主権力同士の軍事衝突が発生しなかったこと[4]を、江戸幕府側が徳川の天下太平を称え、賞賛する意味で用いられた[3]。
戦国時代の終期
[編集]戦国時代の終期にはいくつかの見解が存在するが、その一つが大坂の陣での豊臣氏の滅亡により、元和偃武によって戦国時代が終了したとの考え方である[5]。
文学史
[編集]支配体制や軍事史とは別に、文学史では、乱世を描いた「中世文学」の時代を、保元の乱に始まり、大坂城落城までとして元和偃武に終わる、との説がある[6][7]。元和偃武を境に、それまでは仮想として描いた太平が現実になり、同じ言葉や台詞でも明確に意味が変化し、機能が異なっている[8]。
改元後
[編集]6月には既に一国一城制が定められ、改元後に幕府は武家諸法度の制定などによって、支配体制の強化を図っていくことになった。
脚注
[編集]- ^ 和歌森太郎編 『日本の歴史』上 有斐閣 1957年 p.11 「第1話 日本史観」
- ^ 渡邊大門「10の論点で読み解く 検証! 大阪の陣」『歴史読本』「大坂の陣と秀頼の実像」2014年11月号
- ^ a b c 辻 1993, p. 7.
- ^ 当初は牢人と農民による島原の乱や、牢人による蜂起未遂事件である慶安事件もあったが、その後は領主権力との武力衝突を回避することが前提の強訴や打ちこわしのような騒乱しか起こらなくなり、武力反乱は大塩平八郎の乱まで起こっていない。
- ^ 渡邊大門『大坂落城 戦国終焉の舞台』KADOKAWA <角川選書> 2012年、第4章4節「戦国の終焉」
- ^ 『岩波講座 日本歴史 26巻 日本史研究の現状』岩波書店 1977年、p.135
- ^ 佐竹昭広 『閑居と乱世 - 中世文学点描』 平凡社 2005年、p.254
- ^ 佐竹昭広 『閑居と乱世 - 中世文学点描』 平凡社 2005年、pp.256-257
参考文献
[編集]- 辻達也『日本の近世 10 - 近代への胎動』中央公論社〈日本の近世〉、1993年。ISBN 978-4124030303。