儲士
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儲士(ちょし)とは、奈良時代に地方軍事力として整備された健児になるべく、在地の有力者や富裕農民によって構成された武力を指す。
概要
[編集]「近江国志何郡計帳手実」の神亀元年(724年)の項目に、同郡の古市郷の人で、大友但波史吉備麻呂に関して、34歳で正丁であるとの記録があり、「儲人」の注記がある。吉備麻呂は、翌神亀2年(725年)以降は「健児」になっている。松本愛重の説によると、「儲人」=「儲士」であり、「健児となるべきマウケヒト」の意味であろうという[1]。北啓太の意見によると、さらに兵士中の武芸に秀でた者を差点し、兵事に備えたものであると推定している[2]。『続日本紀』巻第十一、聖武天皇の天平6年(734年)4月23日条にある「儲士」は、健児・選士ともども、天平4年8月の節度使の設置により、その管区内に置かれたものと考えられている。「出雲国計会長にある、天平5年7月13日の石見国移により、「点儲士を差し、幷せて国司郡司等会集に応じる状」という「節度使符」が与えられ[3]、同年10月6日には節度使に対し、「儲士歴名帳一巻」が申送・進上され、同21日には弁官に対し、「儲士暦名簿一巻」も送られている[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『続日本紀』2 新日本古典文学大系136 岩波書店、補注11 - 52、1990年