倉田幽谷
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倉田 幽谷(くらた ゆうこく、1827年(文政10年) - 1900年(明治33年)5月29日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての儒学者。本姓は立見。諱は施報。字は務卿。通称は直八[1]。
経歴
[編集]江戸で安井息軒に師事し、昌平黌で学ぶ。帰郷して下総国佐倉藩の藩校「成徳書院」[注 1]で教える。のち佐倉藩を去り、姓名を倉田 努とかえる。上野国(現在の群馬県)、信濃国(現在の長野県)を巡り、上野国吉井藩に招かれた。和歌、書画もよくした。1900年5月29日に74歳で死去[1]。洋画家の倉田白羊は息子[3]。
著書
[編集]- 「筐底雑誌」 戴抱精舎 明治25年4月
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現在の千葉県立佐倉高等学校の前身[2]。
出典
[編集]- ^ a b “コトバンク 倉田幽谷とは(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)”. 2018年9月14日閲覧。
- ^ “学校沿革”. 千葉県立佐倉高等学校. 2018年9月14日閲覧。
- ^ “物故者記事 倉田白羊”. 東京文化財研究所. 2018年9月14日閲覧。