保科正英
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長16年(1611年) |
死没 | 延宝6年5月23日(1678年7月11日) |
別名 | 百助、主水(通称) |
戒名 | 是即 |
墓所 | 麻布の天眞寺 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 上総飯野藩世嗣 |
氏族 | 小出氏、保科氏 |
父母 |
小出吉英、貞松院 保科正貞 |
兄弟 |
帯刀、三浦重勝正室、小出吉重、正英、 小出英本、小出英信、高岳院、 松平信之正室ら |
妻 | 井上庸名娘 |
子 | 小出英勝、正静 |
保科 正英(ほしな まさふさ)は、江戸時代前期の上総国飯野藩の世嗣。旗本寄合席。通称は百助、主水。旗本保科氏初代当主。
生涯
[編集]母方の叔父である保科正貞の養子となり、寛永16年12月26日(1640年)に徳川家光へ初御目見する。しかしながらその後廃嫡され、飯野藩嫡子の座は、正貞の長男・正景が就いた。正景が飯野藩主となると、安房国長狭郡2000石を分知されて旗本寄合席となる。
のちに長男・小出英勝は父・吉英の養子となって小出姓を名乗る。
延宝3年(1675年)に家督と知行は次男・正静に譲って隠居する。延宝6年(1678年)に死去。享年68。墓所は麻布の天眞寺で代々の葬地とする。法名は是即。
なお武鑑では使番や先手弓頭時代の正静の父を「保科主水」ではなく「小出修理」と掲載しているが、正英の兄が小出吉重(修理亮)ではあるものの、理由は不明である。
系譜
[編集]- 父:小出吉英(1587-1666)
- 母:貞松院(1591-1664) - 保科正直娘
- 養父:保科正貞(1588-1661)
- 正室:井上庸名(淡路守)娘
- 生母不明の子女
- 次男:保科正静(1653-1712) - 主税