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保科光正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

保科 光正(ほしな みつまさ、1914年大正3年)10月7日[1] - 1945年昭和20年)4月1日[1])は、昭和期戦前の外交官華族。幼名・正虎[1]

経歴

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子爵保科正昭の長男として生まれる[1][2]。幼名は正虎であったが、1934年(昭和9年)12月6日に光正に改名した[3]

東京高等学校を経て[4]、1937年(昭和12年)東京帝国大学法学部を卒業[4][5]。同年10月、高等試験外交科試験に合格し[4]外務省に入省して英国書記生に発令されて渡英した[4]

以後、外交官補、外交事務官を歴任[5]。1942年(昭和17年)11月、大東亜省が設置され同事務官に転じた[5]。支那事務局総務課在勤となり在支渉外事務を担当[5]。大臣秘書官事務取扱、兼大臣秘書官も務めた[5]

1945年、竹内新平大東亜次官の随員として南方に出張し、その帰途4月1日、阿波丸事件に巻き込まれ殉職した[6]。没後、大東亜書記官に任じられた[5]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』473-474頁。
  2. ^ 「保科正昭」『人事興信録 第14版 下』ホ2頁。
  3. ^ 『官報』第2387号「彙報」、昭和9年12月14日(NDLJP:2958863/6
  4. ^ a b c d 『日本官僚制総合事典1868-2000 第2版』170頁。
  5. ^ a b c d e f 「大東亜事務官保科光正外十七名任官並官等陞叙ノ件」。
  6. ^ 『花葵:徳川邸おもいで話』208頁。
  7. ^ 『平成新修旧華族家系大成 上巻』61頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上下巻』霞会館、1996年。
  • 保科順子『花葵:徳川邸おもいで話』毎日新聞社、1998年。※著者は光正の妻。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000 第2版』東京大学出版会、2007年。
  • 内閣「大東亜事務官保科光正外十七名任官並官等陞叙ノ件」昭和20年10月12日 国立公文書館 請求番号:任B04090100