保々則貞
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 元亀元年(1570年) |
死没 | 寛永18年11月3日(1641年12月5日) |
別名 | 長兵衛 |
戒名 | 宗秀 |
墓所 | 下谷応徳寺 |
幕府 | 江戸幕府書院番、小普請 |
主君 | 加藤清正、徳川家康、秀忠 |
氏族 | 清和源氏土岐氏族保々氏 |
父母 | 父:保々則康、母:大草公政の娘 |
妻 | 奥山氏 |
子 | 貞広 |
保々 則貞(ほぼ のりさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
略歴
[編集]父則康は元は鷲津氏を称し、土岐氏没落の際に故国美濃を落ちて細川藤賢、滝川一益に仕えた。天正10年(1582年)父が神流川の戦いで戦死すると牢人となり、のち加藤清正に仕える。文禄・慶長の役では清正の子百助に従った。慶長2年(1597年)からは徳川家康に仕え、美濃山県郡・中島郡に1000石を与えられる。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では敵1人を討ち取る武功を立てた。書院番、小普請を歴任する。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第300