侯剛
侯 剛(こう ごう、466年 - 526年)は、北魏の官僚・料理人。字は乾之。本貫は河南郡洛陽県[1]。
経歴
[編集]低い身分の出身であったが、若くして料理を得意とし、料理を進上するために宮中に出入りするようになった。長らくを経て、中散に任じられた。太和末年、孝文帝の南征に従軍して、虎威将軍・冗従僕射・嘗食典御[2]となった。宣武帝はかれの実直さを褒めて、剛の名を与えた。ほどなく奉車都尉・右中郎将・領刀剣左右に転じ、游撃将軍・城門校尉の任を加えられた。典御を兼ねたまま武衛将軍に転じ、さらに通直散騎常侍の位を加えられた。512年(延昌元年)、右衛将軍の号を受けた。元詡(のちの孝明帝)が皇太子に立てられると、侯剛は本官のまま太子中庶子を兼ねた。
515年(延昌4年)、宣武帝が死去すると、侯剛は侍中の崔光とともに東宮に赴き、孝明帝を迎えた。散騎常侍・衛尉卿に任じられ、武陽県開国侯に封じられた。まもなく侍中・撫軍将軍・恒州大中正となった。さらに衛将軍に進んだため、侍中の任を辞そうとしたが、許されなかった。爵位は公に進み、給仕の功労により、散伯の賞を加えられた。516年(熙平元年)、他の官位をそのままに、左衛将軍に任じられた。
後に侯剛は羽林を射殺した罪を御史中尉の元匡に弾劾された。このため太和年間以来の嘗食典御の任を初めて解かれた。ほどなく散騎常侍の位を加えられた。519年(神亀2年)、清河王元懌の推挙を受けて、車騎将軍・領御史中尉となった。
520年(正光元年)、領軍の元叉が北魏の朝廷で権力を掌握すると、侯剛の長男の侯詳が元叉の妹の夫だったことから、侯剛は侍中・左衛将軍として召し出され、再び嘗食典御を兼ね、元叉の党与として活動した。車騎大将軍・領左右の任を加えられ、以前に削られた封をもどされた。521年(正光2年)[3]、儀同三司の位を加えられた。523年(正光4年)、再び御史中尉の任を兼ねた。侯剛は封邑の俸粟を軍人に支給することを求め、孝明帝に許された。525年(孝昌元年)、元叉が領軍の任を解かれると、侯剛は他の官位をそのままにして、領軍に任じられた。まもなく車騎大将軍・儀同三司のまま、散騎常侍・冀州刺史として出向した。526年(孝昌2年)、元叉が殺害されると、元叉の党与であったことが罪に問われて、征虜将軍に降格され、その他の官位と爵位を剥奪された。3月11日、洛陽中練里の邸で死去した。享年は61。永安年間、司徒公の位を追贈された。