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何昌㝢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

何 昌㝢(か しょうう、447年 - 497年)は、南朝宋からにかけての官僚は儼望。本貫廬江郡灊県。高祖父は何準(何充の弟)。曾祖父は何惔。祖父は何叔度。父は何悠之。

経歴

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何悠之の子として生まれた。南朝宋の建安王劉休仁揚州刺史となると、昌㝢は召し出されて揚州主簿となった。司徒行参軍に転じ、太傅五官・司徒東閤祭酒・尚書儀曹郎を歴任した。元徽2年(474年)、建平王劉景素が征北将軍・南徐州刺史となると、昌㝢はその下で征北府主簿をつとめた。老齢の母を養うために官禄を求め、湘東郡太守として出向した。また蕭道成の下で驃騎功曹をつとめた。元徽4年(476年)、劉景素が反乱を起こして敗死すると、昌㝢は劉景素の冤罪を蕭道成や褚淵らに訴えた。

永明元年(483年)、南朝斉の竟陵王蕭子良が文学の官を置くよう上表すると、昌㝢は竟陵王文学となり、厚遇を受けた。揚州別駕に転じ、豫章王蕭嶷にもまた厚く遇された。太子中庶子に転じ、臨川郡内史として出向した。廬陵王中軍長史に任じられたが、受けないうちに再び太子中庶子となり、屯騎校尉を兼ねた。吏部郎に転じ、侍中となった。隆昌元年(494年)、臨海王蕭昭秀荊州刺史となると、昌㝢はその下で西中郎長史・輔国将軍・南郡太守となり、行荊州事をつとめた。明帝が諸王を殺害するため、徐玄慶(『南史』では裴叔業)を派遣して西上させた。徐玄慶が荊州に入ると、昌㝢を頤使しようとした。昌㝢がこれを拒絶したため、蕭昭秀は建康に帰ることができた。

建武2年(495年)、昌㝢は侍中となり、長水校尉を兼ねた。吏部尚書に転じ、再び侍中となり、驍騎将軍を兼ねた。建武4年(497年)、死去した。享年は51。太常の位を追贈された。は簡子といった。

伝記資料

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