コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

何初彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

何 初彦(が はつひこ、1911年[1]5月4日[2] - 1997年7月19日[2])は、日本新聞学研究者、東京大学名誉教授[3]東京大学新聞研究所教授及び所長、上智大学教授などを歴任した[3]

経歴

[編集]

唐通事何礼之の義孫何盛三海軍中将男爵赤松則良の三男)の長男として生まれる。 旧制第四高等学校(現・金沢大学)から東京大学に進み、文学部美学及び芸術史学科に学ぶ[1]。また、海軍兵役に就いた[1]

戦前(少なくとも1941年の時点)には、文化学院で歴史を講じていた[4]

1946年から、上智大学専門部新聞科で非常勤の兼任講師として「雑誌論」を講じ、新制大学発足とともに設けられた文学部新聞学科でも引き続き[5]、長らく「雑誌論」や「映画論」の授業を担当した[6][7]

1949年に設置された東京大学新聞研究所(後の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身のひとつ)に助教授、教授として長く所属し、所長も務めた[6][7]

1971年、上智大学大学院文学研究科に新聞学専攻課程が開設されると、マス・メディア論関係の授業を担当した[5][7]1972年、東京大学を退官し、上智大学文学部新聞学科の専任となった[6][7]

この間、1973年から1976年にかけて、図書館長を務めた[5]

1982年に上智大学を退職した[5]

1989年から1994年にかけて、第37回から第42回の日本エッセイスト・クラブ賞選考委員を務めた。

系譜

[編集]

何初彦は、江戸時代に代々唐通事を務めた何家の第10代当主であった[8]。ただし、何家は代々養子をとる例も多く、第8代何礼之も、林洞海の子であった武を養子としており、初彦は血統の上では林研海西紳六郎などの甥にあたる。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 山本透「何初彦先生を偲ぶ」『マス・コミュニケーション研究』第52号、日本マス・コミュニケーション学会、1998年1月31日、201-202頁。  NAID 110002954734
  2. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、274頁。
  3. ^ a b “何初彦氏(東大名誉教授、元東大新聞研究所長、元上智大教授・新聞学)死去”. 読売新聞・東京朝刊: p. 35. (1997年7月20日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  4. ^ 安田武「故西村伊作氏と文化学院のこと」『愛と叛逆―文化学院の五十年』文化学院出版部 森重出版、1971年5月25日。「それは昭和十六年の春から夏のこと...ところで、そのころの学院の教授・講師の顔ぶれを、ゼヒ書いておかねばならぬ。...いま新聞研究所にいる何初彦が歴史を教えていた。」 :左記を引用している著作=中野光『教育改革者の群像』国土社、1976年、95-96頁。  Google books
  5. ^ a b c d 「何初彦教授の退職」『コミュニケーション研究』第13号、上智大学コミュニケーション学会、1983年3月25日、95頁。  NAID 120005459032
  6. ^ a b c 川中康弘「上智大学新聞学科40年の歩み」『コミュニケーション研究』第6号、上智大学コミュニケーション学会、1973年12月31日、6頁。  NAID 120005459007
  7. ^ a b c d 鈴木雄雅「学事資料 上智大学大学院文学研究科新聞学専攻30年の歩み(1)」『コミュニケーション研究』第34号、上智大学コミュニケーション学会、2004年3月23日、75-84頁。  NAID 40006289364
  8. ^ 許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」『関西大学東西学術研究所紀要』第44号、2011年、297-318頁。  NAID 120005686612