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佐都ヶ岩屋古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐都ヶ岩屋古墳 / 平沢1号墳
墳丘・石室開口部
所属 平沢古墳群
所在地 茨城県つくば市平沢
位置 北緯36度11分9.70秒 東経140度6分15.40秒 / 北緯36.1860278度 東経140.1042778度 / 36.1860278; 140.1042778座標: 北緯36度11分9.70秒 東経140度6分15.40秒 / 北緯36.1860278度 東経140.1042778度 / 36.1860278; 140.1042778
形状 方墳
規模 一辺25-35m
埋葬施設 横穴式石室
築造時期 7世紀中葉-後半
史跡 つくば市指定史跡「佐都ヶ岩屋古墳」
特記事項 T字形石室
地図
佐都ヶ岩屋 古墳の位置(茨城県内)
佐都ヶ岩屋 古墳
佐都ヶ岩屋
古墳
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佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん)または平沢1号墳(ひらさわいちごうふん)は、茨城県つくば市平沢にある古墳。形状は方墳。平沢古墳群を構成する古墳の1つ。つくば市指定史跡に指定されている。

概要[編集]

茨城県南西部、筑波山南麓の桜川支流の八幡川に面した、平沢山の頂上部付近の南斜面(標高145メートル)に築造された古墳である[1]。一帯には平沢古墳群が分布し、かつては「三十六岩屋」というほど多数の古墳があったとされるが、現在は4基のみが遺存し、本古墳はそのうち最大規模になる。1976-1978年昭和51-53年)に墳丘測量・石室実測調査が実施されている。

墳形は方形(長方形)で、南北25メートル・東西35メートルを測る[2]。埋葬施設は横穴式石室で、南方向に開口する。後室(玄室)・前室・羨道からなる複室構造で、T字形の平面形をなす特異な形状の石室になる。副葬品は詳らかでない。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀中葉-後半頃と推定される[2]。当該時期の筑波山南麓の古墳としては最大級の墳丘・石室を有し、筑波郡衙跡の平沢官衙遺跡を見下ろす位置に所在することから、筑波国造・筑波郡司と関係する古墳として注目される[2]。なお、平将門の娘の瀧夜叉姫が隠れ住んだという伝説もある[2]

古墳域は1973年(昭和48年)に旧筑波町指定史跡(現在はつくば市指定史跡)に指定されている。

遺跡歴[編集]

  • 1973年昭和48年)12月12日、旧筑波町指定史跡に指定(現在はつくば市指定史跡)。
  • 1976-1978年(昭和51-53年)、墳丘測量・石室実測調査(筑波大学考古学研究会、1982年に報告)[3]

埋葬施設[編集]

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。後室(玄室)・前室・羨道からなる複室構造の石室で、石室主軸と直交方向の後室に前室・羨道が接続し、全体の平面形としてはT字形をなす。石室の規模は次の通り[3]

  • 石室全長:7.65メートル
  • 後室(玄室):長さ2.15メートル、幅5.45メートル
  • 前室:長さ2.50メートル、幅2.10メートル
  • 羨道:長さ3.00メートル、幅2.00メートル

石室の石材は雲母片岩(通称平沢石)の板石で、巨石を使用する。後室は、奥壁3枚・両側壁各1枚で構築され、袖石も左右各1枚による。天井石は左右1石ずつの2石とみられるが、東側の石は欠失する。また後室の東寄りには仕切り石を置く。前室・羨道は、両側壁を各3枚の板石と開口部付近の小型の積石により、その中央付近に前門を置いて区画する。前室前の前門は、逆L字状に加工された2石を中央で合わせる。また前門の前には、閉塞石と思われる板石1枚が遺存する[3]

文化財[編集]

つくば市指定文化財[編集]

  • 史跡
    • 佐都ヶ岩屋古墳 - 1973年(昭和48年)12月12日指定。

脚注[編集]

参考文献[編集]

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板(つくば市教育委員会、2006年設置)
  • 「平沢・山口古墳群」『筑波古代地域史の研究 -昭和54〜56年度文部省特定研究経費による調査研究概要-』筑波大学、1982年。  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 「平沢古墳群」『筑波町史』 上巻、つくば市、1989年。 
  • 川崎純徳「平沢古墳群」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 

関連文献[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『茨城県筑波郡筑波町 平沢・山口古墳群調査報告』筑波大学考古学研究会、1982年。 

関連項目[編集]