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佐藤賢吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐藤 賢吉(さとう けんきち、1914年12月29日 - 1964年1月30日[1])は、日本バレーボール選手。昭和期のバレーボールの先駆者。

経歴・人物

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福岡県出身。1932年福岡県中学修猷館を経て[2]大阪外国語学校に進学する[3]。在学中に全日本代表メンバーに選ばれている。

卒業後、昭和製鋼所に入社し、1940年の全日本排球選手権で優勝をもたらしている[3]

戦後は、郷里福岡で「スピヤース」というクラブチームを結成して、全日本排球選手権に出場し、ベスト4に進出している。1950年には、一大飛躍を目指した倉敷紡績が、適切な女子の指導者を求め、佐藤に白羽の矢を立てて監督に就任。その後のクラボウバレーボール部の黄金時代を築いた[3]

1960年に監督を辞任。その後、日本実業団バレーボール連盟の副理事長などを務めている[3]

脚注

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  1. ^ 日本人物レファレンス事典 武術・体育・スポーツ篇(日外アソシエーツ、2021年)202頁
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』同窓会員26頁
  3. ^ a b c d 「バレーボールに生きる(2) 佐藤賢吉」 バレーボールマガジン第1巻第2号(ベースボール・マガジン社、1962年)51頁