コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

佐藤政養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤政養

佐藤 政養(さとう まさやす、文政4年12月1821年[1] - 明治10年(1877年8月2日[1])は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の蘭学者、鉄道技術者。通称は与之助。号は李山。

経歴

[編集]

出羽国飽海郡升川村(→直世村升川→現・遊佐町直世升川)の農民佐藤与兵衛の長男[2]

幼い頃から才気煥発で、1853年(嘉永6年)8月に上京し[2]勝海舟砲術[2]伊藤鳳山に漢籍[2]佐藤恒俊彫刻をそれぞれ学んだ[2]。1855年(安政2年)庄内藩砲術方を命じられ、同年9月長崎海軍伝習所の生徒として長崎に至り[2]グイド・フルベッキに測量や軍艦操練を学ぶ[2]。同年に庄内藩組外徒士格、江戸幕府軍艦操練所蘭書翻訳方として役付きとなった。

1862年文久2年)に大坂台場詰鉄砲奉行、1864年元治元年)に神戸海軍操練所を司り、14代将軍徳川家茂の大坂港視察に帯同した[2]。また幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した[2]

明治維新後は民部省の初代鉄道助となり、日本初の鉄道路線となる新橋 - 横浜間の鉄道敷設に尽力した。また、1870年(明治3年)に小野友五郎と共に東海道の調査を行い、中山道の線路敷設を提案した調査報告書を上申、この案が中山道幹線敷設に繋がった。

1876年(明治9年)5月、病気により依願免官し、翌1877年(明治10年)8月2日に55歳で死去[2]。墓所は東京都港区青山霊園にある[2]。1928年(昭和3年)従四位[2]

1964年昭和39年)、国鉄吹浦駅前に銅像が建てられた[2]。地元では、鉄道の日である毎年10月14日に顕彰祭を行っている[3]

関係史料

[編集]
  • 参考文献『日本国有鉄道百年史 2』口絵に佐藤の写真と文書が紹介されており、「鉄道助佐藤政養が高級技術者として新橋・横浜間および大阪・神戸間の鉄道建設に従事していたとき書き残した意見書類は、当時の鉄道建設事情を知るうえに貴重な資料である。この佐藤政養文書(8巻)は、昭和38年鉄道記念物に指定され、現在交通博物館に保存されている」と記されている。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラ-ト-の発刊について”. www.town.yuza.yamagata.jp. 遊佐町. 2022年8月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 郷土の先人・先覚56 《佐藤 政養》”. www.shonai-nippo.co.jp. 荘内日報社. 2022年8月25日閲覧。
  3. ^ 【毎年10月14日】佐藤政養祭(遊佐四大祭)”. www.yuzachokai.jp. 遊佐鳥海観光協会. 2022年8月25日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 『日本国有鉄道百年史 第2巻』日本国有鉄道、1970年。
  • 『明治過去帳』大植四郎(編)、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 『洋学史事典』日蘭学会(編)、雄松堂出版、1984年。
  • 『新編 庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会(編刊)、1986年。
  • 『坂本龍馬』松浦玲、岩波書店<岩波新書1159>、2008年。
  • 国内初の鉄道開設に尽力 佐藤政養の功績学ぶ 山形・遊佐 (河北新報 2010年10月16日)
  • 『飽海郡誌. 巻之10』(国立国会図書館デジタル化資料)
  • 鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年、214-215頁
  • 丸山健夫 『筆算をひろめた男-幕末明治の算数物語』 臨川書店 平成27年(2015年) ISBN 978-4-653-04225-9