佐藤国蔵
佐藤 国蔵(さとう くにぞう、1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1909年(明治42年)6月20日)は、日本の医師。日本で初めて点字楽譜を点訳したことで知られる。小説家の田澤稲舟は従姪[1]。
生涯
[編集]1867年(慶応3年)、出羽国飽海郡遊佐郷六日町村(現在の山形県飽海郡遊佐町遊佐高砂)に生まれる。父・意泉も医師で、住民から「えしぇさま(意泉様)」と呼ばれ親しまれた。「えしぇさま」は佐藤家の営む病院の通称となっている[2]。
山形県会議員(後に衆議院議員)の鳥海時雨郎に師事し勉学に励み、1884年(明治17年)に東京大学医学部別課医学課程に合格した。しかし、2年生の秋頃から視力に変調をきたし、1887年(明治20年)に卒業こそできたものの、医術開業試験を受けることはできなかった。1889年(明治22年)、主治医である須田哲造が嘱託医を務めていた東京盲唖学校に入学。1893年(明治26年)、技芸科鍼治科を卒業すると同時に、技芸科バイオリン科に再入学する。この頃、同校の寄宿舎舎監を務めていた石川倉次との縁で、点字調査委員となる。1894年(明治27年)12月18日、小山作之助の『国民唱歌集』を点訳、翌1895年には点字楽譜の作成方法を示した『点字唱歌の譜綴り方』を作成した[3]。これは、1910年(明治43年)に文部省が『訓盲楽譜』を発行するまで、視覚障害者の音楽教育のバイブルともいうべき存在であった。
1895年にバイオリン科を卒業した後、帝国大学医科大学附属医院に入院し、河本重次郎の執刀により虹彩切除の手術を受ける。この手術は成功し、視力が回復。1896年(明治29年)の医術開業試験に合格した。翌1897年(明治30年)に遊佐に帰郷した後は、問診や往診にとどまらず地域の衛生教育にも尽力した。
1909年(明治42年)、会合を終えて帰宅した直後に倒れ、心臓麻痺で亡くなった。
参考文献
[編集]- 鈴木栄助『盲人に音楽を 佐藤国蔵の生涯』 日本放送出版協会、1979年
脚注
[編集]- ^ 国蔵の父と稲舟の父方の祖父とが兄弟
- ^ 現在の順仁堂遊佐病院
- ^ 『音楽教育の礎』春秋社、2007年5月、140-141頁。ISBN 978-4-393-93513-2。