佐竹金次
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生誕 |
1903年8月13日 日本・愛知県豊川市森町 |
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死没 | 1964年10月18日(61歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1924年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大佐 |
佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉10月18日)は大日本帝国陸軍の軍人・工学者。
陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て日本陸軍のレーダー開発に貢献した。
生涯
[編集]1903年(明治36年)、愛知県豊川市森町にて、父幹方、母ときの4男(8人兄弟)として生まれる。幼少期から学業に優れ、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1924年(大正13年)7月18日に陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月25日に工兵少尉に任官、工兵第1大隊付となる[1]。1927年(昭和2年)12月22日に陸軍砲工学校(33期)高等科を首席卒業後、更に員外学生として在学。1931年(昭和6年)3月10日に京都帝国大学電気工学科を卒業[2]。1933年(昭和8年)8月1日には工兵大尉に進級した[3]。
その後、任地入隊を経験し、陸軍砲工学校教官、陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て、1938年(昭和13年)3月1日には工兵少佐に進級し[4]、陸軍のレーダー開発に携わった[5]。1941年(昭和16年)3月1日工兵中佐に、1944年(昭和19年)8月1日陸軍大佐に進級。
1943年ドイツからの帰国時はフランスのボルドー市潜水艦基地からルイージ・トレッリ号(潜水艦)にて出港し同年9月にシンガポール港に入港した[6]。
戦後は沖電気株式会社にて、電子計算機による外国語翻訳プログラム作成の研究に携わった。(論文:「言語における国際性」(国際電信電話株式会社 研究所[7])
栄典
[編集]- 1924年(大正13年)12月15日 - 正八位[8]
- 1927年(昭和2年)12月28日 - 従七位[9]
- 1933年(昭和8年)2月1日 - 正七位[10]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲六等単光旭日章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[11]
- 1938年(昭和13年)
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[14]
出典
[編集]- ^ 『官報』第3654号、大正13年10月27日。
- ^ 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ 『官報』第1976号、昭和8年8月2日。
- ^ 『官報』第3346号、昭和13年3月2日。
- ^ [1] 防衛研究所資料 2023年8月15日閲覧
- ^ 『深海の使者』文藝春秋、1976年4月25日、294頁。
- ^ 佐竹金次 (1964-6). “言語における国際性”. 国際電信電話株式会社 研究所 研究資料第294号 (国際電信電話株式会社 研究所) 研究資料第294号 (研究資料第294号).
- ^ 『官報』第3715号、大正14年1月13日。
- ^ 『官報』第365号、昭和3年3月19日。
- ^ 『官報』第1830号、昭和8年2月7日。
- ^ 『官報』第2483号、昭和10年4月16日。
- ^ 『官報』第3359号、昭和13年3月17日。
- ^ 『官報』第3564号、昭和13年11月19日。
- ^ 『官報』第4468号付録、昭和16年11月28日。