佐保来栖山砦
佐保来栖山砦 (大阪府) | |
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佐保来栖山砦の案内看板 | |
別名 | 来栖山砦、来栖山城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 不明 |
築城年 | 15世紀後半-16世紀初頭 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 不明 |
廃城年 | 16世紀中頃 |
遺構 | 建物跡、曲輪、石垣、竪堀、武者隠しなど |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度51分53.073秒 東経135度32分32.211秒 / 北緯34.86474250度 東経135.54228083度 |
地図 |
佐保来栖山砦(さほくるすやまとりで)は、大阪府茨木市大字佐保にあった砦、山城。史料に記載がなく、平成になり発掘調査で存在が確認できた城郭である。
概要
[編集]この城跡は、史料に全く記載がなく、誰が城主であったのか沿革などは不明の城郭である。以前より不自然な平坦面が観察されていたことから、城郭の存在が指摘されていた。国際文化公園都市造成に伴い、全斜面と盛土部分を含めた、尾根の全面的な発掘調査が行われた。城郭は国見峠を経て、清坂街道と接続している。当地は丹波国と摂津国(大坂)を結ぶ重要な位置に存在していた。「福井城と関連があったのではないか」と近隣にあった福井城との関連を指摘されている[1]。
城郭
[編集]城郭は北東から南西へ延びる尾根の最先端部に位置する。尾根の最長部を中心に曲輪は3つあり、これを取り囲むように小規模な曲輪が配され、それらを繋ぐ通路があった。斜面には、堀切と石垣が検出された。石垣は砦斜面を全周するものではなく、曲輪の平坦面の高さまで積み上げたものではない。曲輪留め程度の石垣であったと思われるが、「心理的な防御の機能も果たしていたと思われます」と曲輪留め以外の役割も果たしていたと解説されている[2]。主要3曲輪の一つに礎石建物とそれを囲む土塁が出土した。建物の礎石は火熱をうけ、火災を被ったことが確認された。また土壁が大量出土し、礎石は建物に伴うものと考えられている。中央の曲輪が一段高く、両側にある曲輪が一段低くなっている。建物があった曲輪は一段低い部分にあたる。発掘調査により、礎石建物があった曲輪が最初にできた曲輪で単郭構造の砦から、2つの曲輪が並列して改築された変遷をもつ。最長部の曲輪と礎石建物があった曲輪からの出土物が多く、住居を伴う建物が両曲輪であったと考えられている。
出土物
[編集]発掘調査から、数多い遺物が検出された。
土師器小皿、土器皿、碗、青磁碗、染付皿、染付碗、瀬戸美濃皿、瀬戸美濃碗、瀬戸美濃水滴、備前徳利、備前擂鉢、備前甕、丹波壺、丹波擂鉢、瓦器仏花瓶、瓦器火鉢、瓦器香炉、土師器鍋、石臼、鉄釘、銭貨、刀子
なお、瓦は出土しなかった。またこれら遺物から特定の人物を推定することはできなかった。
城跡へのアクセス
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高田徹編著『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、186-187頁。