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佐伯清岑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐伯清岑
時代 平安時代初期
生誕 天平宝字7年(763年
死没 天長4年4月26日827年5月25日
官位 正四位下常陸守
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 佐伯氏
父母 父:佐伯人麻呂
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佐伯 清岑(さえき の きよみね)は、平安時代初期の貴族従五位下・佐伯人麻呂の子。官位正四位下常陸守

経歴

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桓武朝末の延暦24年(805年従五位下叙爵[1]、翌大同元年(806年但馬介に任ぜられる。

嵯峨朝弘仁2年(811年陸奥守を務めていたが、陸奥出羽按察使文室綿麻呂と共に、蝦夷の2村(爾薩体幣伊)を征討することを上奏し、許されている(この時の位階は従五位上)[2]。弘仁3年(812年正五位下、翌弘仁4年(813年右少弁に叙任される。弘仁10年(819年従四位下、弘仁13年(822年)従四位上、天長元年(824年)正四位下と嵯峨朝末から淳和朝初頭にかけて順調に昇進した。

またこの間に地方官として上野守常陸守を務めたが、上野守の際に加挙(公出挙で各国ごとに定めた貸し出すの額(例挙)以上の出挙)を行うが、国内に未納が多く発生し、民は納めることができない租税に苦しんだ。常陸守でも同様に加挙を行うが、やはり民はこれに苦しみ、地方官としての名声を得ることはできなかった。結局下僚の国司による朝廷への告発により、加挙は停止させられた。天長年間初頭に常陸守の任期を終えて帰京した後[3]、天長4年(827年)4月26日に豊嶋の別邸で卒去享年65。最終官位散位正四位下[1]

人物

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穏やかな、温かみのある顔つきで、他人に対して怒りの感情を見せることがなかったが、一方で硬軟取り混ぜて適切に処理すること非常に苦手であった。清廉さは仰ぎ見て賞賛すべきほどであり、遠方まで朝廷の政化を進め、地方官として悪い評判が立つことがなかった[1]

官歴

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日本後紀』による。

系譜

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  • 父:佐伯人麻呂[1]
  • 母:不詳

脚注

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  1. ^ a b c d 『日本後紀』天長4年4月26日条
  2. ^ 『日本後紀』弘仁2年3月20日条
  3. ^ 後任の常陸守として天長3年(826年)に甘南備高直が任ぜられている。

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年