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佐伯元継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐伯元継
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 亀松(幼名)→佐伯元継
別名 通称:藤次郎
主君 毛利元就
氏族 佐伯氏
行継
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佐伯 元継(さえき もとつぐ)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。孫は下松藩士の佐伯継直

生涯

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出自については判然としないが、毛利元就に仕える。

享禄3年(1530年7月24日安芸国山縣における尼子経久との合戦に従軍し、弓矢の腕を比類無きものであるとして、翌日に元就から感状を与えられた。

天文9年(1540年)、尼子晴久出雲石見伯耆因幡備前備中備後美作・安芸の兵30,000[1]を率いて安芸国に侵攻し、元就の吉田郡山城を包囲した(吉田郡山城の戦い)。同年9月12日尼子晴久の軍との大田口の戦いで元継は武功を挙げ[2]、同年10月11日青山土取場の戦いでは尼子誠久三沢為幸らの軍勢と戦って負傷しつつも戦功を立てた。この戦いは毛利軍の井上就綱が三沢為幸を討ち取り、大勝を収めた[3]。また、翌天文10年1月13日宮崎長尾の戦いにおける尼子陣切り崩しの際に武功を挙げた[4]。以上の吉田郡山城の戦いにおける3つの合戦においても、それぞれ翌日に元就から感状を拝領している。

その後の元継の動向は不明だが、佐伯氏は子・行継が後を継いだ。

脚注

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  1. ^ 毛利元就郡山城籠城日記』による。
  2. ^ 大田口の戦いでは、佐伯元継以外にも中村就久渡辺規三戸元久三宅元重綿貫就資弘九郎左衛門尉波多野就雅児玉就秋末国光氏八幡原元直佐藤元実など、多くの家臣に元就の感状が与えられており、激戦であったことが窺える。
  3. ^ 青山土取場の戦いでは、元継以外に児玉就方井上元良粟屋元親市川五郎左衛門井上元助井上新三郎三戸元久中村就親井上元保末国光氏赤川元忠三戸元清井上光俊岡光良羽仁元永内藤九郎右衛門尉赤川又七郎らにも感状が与えられている。
  4. ^ 宮崎長尾の戦いでは元継以外にも、児玉就方赤川元秀佐藤元実高神四郎市川五郎左衛門岡光良内藤彦四郎内藤九郎右衛門児玉就光三戸元富粟屋就俊飯田元重井上元助粟屋元信信常就程三戸元久中村就親八幡原元直三戸元清らに感状が与えられた。

参考文献

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