佐介流北条氏
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(佐介流から転送)
佐介流北条氏(さすけりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の執権北条氏の分流。鎌倉幕府連署を務めた北条時房の長男で、2代六波羅探題南方・北条時盛を祖とする。
概要
[編集]時盛は元仁元年(1224年)、3代執権北条泰時の嫡男・時氏と共に上洛し、父時房の後任として六波羅南方に就任し、以後18年間務める。この時点では時房の後継者の地位にあったと思われるが、鎌倉へ戻って以降は要職に就任せず、多くの息子も要職に就いていないことから、9歳下の弟である朝直(大仏家)との家督争いに敗北したと見られる。朝直の義父でもある泰時が、朝直を重んじて時盛を排除することで時房流を分裂させ、泰時流(得宗家)の安定を図ったとする見解もある(実際に時盛は時房死去時と泰時死去時に後任の連署の地位を求めて鎌倉に下るが、泰時やその意向を受けた北条氏一門に拒まれている)[1]。ただし、時盛は朝直とは異腹で母が不詳であることから「庶兄」だったのではないかとする見解[2]、朝直は将軍源実朝の偏諱を受けた可能性があり、彼が当初から嫡男だったとする見解もある。
その後、二月騒動をきっかけに、時盛の六男時員の子の時国が六波羅探題南方に就任し、復興の兆しも見られたが、弘安7年(1284年)4月の執権・時宗死去から間もない6月に時国は悪行を理由に関東へ召し出され、常陸国へ配流となった後、10月には誅殺された。また時盛の次男・時光も同年[3]8月、陰謀が露見したとして拷問を受けた後、佐渡国へ配流となり、佐介流は再び没落した。その後は時盛の次男政氏の子・盛房が評定衆、引付衆となって復興するが、時房流内の地位は嫡流の大仏家に圧倒されている。
系図
[編集]北条時政 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(得宗家) | 時房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(佐介流) 時盛 | (大仏流) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時景 | 時光 | 時親 | 政氏 | 時俊 | 時員 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親房 | 時継 | 時家 | 時方 | 盛房 | 時国 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宣房 | 貞尚 | 貞高 | 時元 | 貞資 | 国房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年。 ISBN 978-4-86602-090-7 P205-211・228-235・261-264.
- ^ 倉井理恵「北条庶子家の一形態」『駒沢大学史学論集』第29号、1999年。
- ^ 『鎌倉年代記』裏書による。『保暦間記』では弘安4年(1281年)の事となっている。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 佐助 - 鎌倉の地名