佐久間信近
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佐久間信近(左側の人物、右側は新見正登) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦6年(1756年) |
死没 | 文化11年(1814年)11月 |
別名 | 通称:於菟次郎、左京 |
幕府 | 江戸幕府旗本、大坂西町奉行 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 松前氏→佐久間氏 |
父母 |
松前広居、杉原正府娘 佐久間信賢 |
兄弟 |
松前浮広、信近、女子、伊十郎、 松前照広、亀五郎、小川広貞、女子 |
妻 | 佐久間信賢の娘 |
佐久間 信近(さくま のぶちか)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。大坂西町奉行。
略歴
[編集]松前広居の次男であったが、佐久間信賢の娘を娶り末期養子となった。
安永元年(1772年)12月27日、17歳で信賢より家督(蔵米300俵)を継いだ。安永2年(1773年)12月30日、大番に列せられ、天明8年(1788年)7月19日には大番組頭に昇進する。寛政5年(1793年)7月10日、御徒歩頭となり、同年12月28日には布衣を許された。
寛政6年(1794年)10月15日、西の丸御目付に転任し、寛政8年(1796年)5月21日よりは本丸勤めとなった。同年12月15日、西の丸修理を担当した功労により時服金黄金3枚を賜った。
寛政9年(1797年)5月18日、将軍継嗣・徳川家慶の西の丸入りを世話した功労に対して時服金2両を賜った。
享和元年(1801年)4月7日より大坂町奉行(西町奉行)となり、文化5年(1808年)8月24日に持弓頭となる。文化11年(1814年)11月に死去[1]。
『寛政重修諸家譜』編纂時の当主であり、神田雉子町、本所永倉町に屋敷を構えていた。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻(東洋書林、1997年)p.1244