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佐々木登

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々木 登
生誕 1893年1月1日
日本の旗 日本 広島県
死没 (1961-04-27) 1961年4月27日(68歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1914 - 1947
最終階級 陸軍中将
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佐々木 登(ささき みのる、1893年1月1日 - 1961年4月27日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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広島県出身。旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)を経て[1]1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業、同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第5連隊付となる。1923年11月、陸軍大学校(35期)を優等で卒業。

騎兵第5連隊中隊長、陸軍省軍務局課員、ポーランドソ連駐在、軍務局課員、陸大専攻学生、陸大教官兼参謀本部員、第3師団参謀農林省馬政局資源課長などを経て、1939年8月、陸軍少将に進級。

陸軍兵器本廠付を経て騎兵第4旅団長として日中戦争に出征。第6軍参謀長、陸軍機甲本部付、南東支隊長を歴任し、第8方面軍司令部付の1944年10月、陸軍中将となりラバウルで終戦を迎え、1947年11月に復員した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]

南東支隊長時代、ニュージョージア島防衛の指揮を執り、よく連合軍の攻勢を持ち堪えた。アメリカ陸軍省発行『米陸軍公刊戦史』において「圧倒的劣勢であった日本軍は、4師団からなる米軍に反撃し、9400名の兵士を成功裏に退却させた。頑強な佐々木将軍は、彼の勇敢で有能な防禦の指導に対し、祖国の感謝を受けるに値している」と称えられている[3]

脚注

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  1. ^ 修道中学校同窓会「修中同窓会報第7号」昭和9年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  3. ^ US Army in World War II 10章「After Munda」188頁

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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