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住乃江田鶴子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
住之江田鶴子から転送)
すみのえ たづこ
住乃江 田鶴子
本名 柿畑 田鶴子 (かきはた たづこ)
別名義 住之江 田鶴子
妙 蓮子 (みょう れんこ)
生年月日 (1908-01-18) 1908年1月18日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 女優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1926年 - 1938年
配偶者 片岡左衛門
主な作品
黄昏の笑顔
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住乃江 田鶴子(すみのえ たづこ、1908年1月18日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名柿畑 田鶴子(かきはた たづこ)[1][2]。芸名の表記は住之江 田鶴子住ノ江 田づ子住の江 田鶴子住ノ江 田鶴子住江 たづ子住江 田鶴子と揺れがみられる[5][6]。後年は芸名を妙 蓮子(みょう れんこ)と名乗った[3][10]KINENOTEおよびallcinemaに記載される読み「すみのえだ つるこ」[7][8]は誤り[1][2]

人物・来歴

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1908年明治41年)1月18日京都府京都市に生まれる[1][2][3]

旧制小学校を卒業し、祇園舞妓となったのちに、牧野省三マキノ・プロダクションに父が勤務する縁で同社御室撮影所に入社、1926年(大正15年)10月1日に公開された『どんどろ堀』(監督二川文太郎)で主演の杉狂児の妻役に抜擢され、満18歳で女優としてデビューする[1][2][3]。このときのクレジットは「住江 たづ子」(すみのえ たづこ)であった[5][11]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、住乃江は、マキノ智子松浦築枝岡島艶子大林梅子桜木梅子生野初子河上君栄三保松子泉清子都賀静子らとともに「俳優部女優」に名を連ねた[12]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象)を最後に退社している[5][6]

同年、東亜キネマに移籍し、『豪侠十文字』(監督堀江源太郎のちの堀江大生)に出演、羅門光三郎の相手役として主演しており、同作は同年5月15日に公開された[5][6]。1932年(昭和7年)になると同社の経営は悪化し、同社の製作代行会社東活映画が設立されると同社に継続的に入社、『南地囃子』(監督久保義郎)に出演、武村新の相手役として主演、同作は同年1月8日に公開されたが、同社は同年10月に解散している[5][6]。1934年(昭和9年)には興国キネマが製作した『魔刃紅蜥蝪』(監督仁科熊彦)に出演、1936年(昭和11年)には極東映画に移籍、同年9月13日に公開された『颯爽桂小五郎』(監督山口哲平)や、翌1937年(昭和12年)2月20日に公開された、住乃江にとっての初めてのトーキー『閻魔寺の幽霊』(監督山口哲平)に出演した[5][6]。その後、芸名を「妙 蓮子」と改名し、以降も同年11月20日に公開された『妖術白縫蜘蛛』(監督米沢正夫)など多く出演、1938年(昭和13年)5月5日に公開された『快傑虎 前篇 虎狼八荒の巻』(監督山口哲平)が確認出来る最後の出演作である[3]。1943年(昭和18年)には、極東映画時代に共演した7歳上の俳優・片岡左衛門(本名大島善一、1901年 - 1995年)と結婚、1男1女をもうけた[3][10]が、その後間もなく病没したと伝えられる[1]没年不詳

フィルモグラフィ

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クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

マキノプロダクション御室撮影所

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すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[5][6]

東亜キネマ京都撮影所

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特筆以外すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]

興国キネマ

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製作は「興国キネマ」、配給は「早川興行」、すべてサイレント映画である[5][6]

極東映画

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製作・配給は「極東映画」、特筆以外はすべてサイレント映画である[5][6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f キネマ旬報社[1980], p.382.
  2. ^ a b c d e 映画世界社[1929], p.158.
  3. ^ a b c d e f 国書刊行会[2004], p.259-260.
  4. ^ 住乃江田鶴子jlogos.com, エア、2013年5月7日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 住之江田鶴子日本映画データベース、2013年5月7日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 住乃江田鶴子住の江田鶴子住ノ江田鶴子住江田鶴子住之江田鶴子、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月7日閲覧。
  7. ^ a b 住之江田鶴子KINENOTE, 2013年5月7日閲覧。
  8. ^ a b 住之江田鶴子allcinema, 2013年5月7日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 住乃江田鶴子住之江田鶴子住ノ江田鶴子東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月7日閲覧。
  10. ^ a b 『映画論叢 30』国書刊行会、2012年、91頁。 
  11. ^ どんどろ堀 - 日本映画データベース、2013年5月7日閲覧。
  12. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月7日閲覧。
  13. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月7日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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