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伯蒲慧稜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伯蒲慧稜(はくほえりょう、天文12年(1543年)- 寛永5年(1628年))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。龍安寺12世、妙心寺62世で同寺位頭および同寺壽聖院(寿聖院)の開祖。俗姓は角倉氏で、豪商角倉了以は従兄弟にあたる。伯蒲は(道号とも言う)、法名(法諱とも言う)は慧稜であるが、「慧」はしばしば「恵」の漢字に書き替えることがあり、伯蒲恵稜とも書く。

略歴

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天文18年(1549年)、6歳の時に龍安寺塔頭養花院に入り、9歳の時に剃髪して亀年禅愉より慧稜の安名(法名)を授かった。

天竜寺策彦周良に詩文を学び、月航玄津(普済英宗禅師)に朝参暮請して仏法を修め、天正2年(1574年)の31歳の時に印可を受けた。

養花院から妙心寺に出世し、師匠月航の後を継いで龍安寺12世住職となった。石田三成およびその父正継の帰依をうけて、慶長4年(1599年)、妙心寺内に壽聖院を開き、始祖となった。また織田信包に請われて龍安寺塔頭西源院を復興した。

大宗匠として九哲(特英寿采、梅岳寿皓、雪庭寿珪、岐山寿昕、鉄堂宗圍、蓬山宗丘、乾瑞宗気、仁渓守信、雲屋祖泰)と呼ばれる高弟を輩出したが、紫衣事件に巻き込まれて、妙心寺の硬派をなす単伝士印(妙心寺74世)東源慧等(妙心寺141世)らと対立。妙心寺の行く末を案じる伯蒲は、幕府に従うべきとする軟派を率いて、本人と弟子が以心崇伝を介して幕府に直訴したが、これがもとで大徳寺沢庵宗彭玉室宗珀と前述の単伝、東源の4人の僧が配流になり、幕府の決定で95人の高僧が紫衣をはく奪される結果になったので、他宗派の僧侶にも恨まれることになった。

寛永5年(1628年)に江戸より帰京する途中で病に倒れて示寂した後、遺体が京都の龍安寺には運ばれても、妙心寺では伯蒲の死は開山の冥罰であると信じられたので、誰一人として弔問に訪れる者はいなかったという。

参考文献

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  • 笹尾哲雄『近世に於ける妙心寺教団と大悲寺』文芸社、2002年。ISBN 4835534018 

関連項目

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