伊達政隆
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時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正18年7月30日(1590年8月29日) |
死没 | 元和元年(1615年) |
改名 | 岩城隆道(初名)→伊達政隆 |
別名 | 通称:長次郎 |
主君 | 伊達政宗 |
氏族 | 岩城氏→岩谷堂伊達家 |
父母 | 父:岩城常隆、母:岩城御前[1](二階堂盛義娘) |
妻 | 白石宗直の女 |
子 | 国隆 |
伊達 政隆(だて まさたか)は、江戸時代初期の武将。岩谷堂伊達家初代当主。
略歴
[編集]天正18年(1590年)、陸奥国岩城氏17代当主・岩城常隆の子として誕生。その僅か8日後、父・常隆が小田原征伐の参陣中に病死する。岩城氏の家督は豊臣秀吉の仲介もあり、常陸国の佐竹義重の三子・貞隆[2]が継いだため、政隆は岩城氏より追放された。
慶長12年(1607年)、母・岩城御前と共に初めて仙台に来て伊達政宗に謁見して厚遇された。政隆の祖父・親隆は政宗の祖父である伊達晴宗の子であり、政宗と常隆の祖母・久保姫(栽松院)は岩城氏出身であった事から、その縁もあったものと思われる。陸奥栗原郡清水に知行を得た。
慶長15年(1610年)、伊達姓を賜って伊達氏一門に列し、政隆と名を改める。陸奥江刺郡岩谷堂に5000余石を領して一家を興した(一門第六席・岩谷堂伊達家)。
脚注
[編集]- ^ 初め、岩城常隆に嫁すが、離別。慶長年間に伊達成実に再嫁し、岩城御前と呼ばれる。成実との間に小僧丸を生むが夭折する。元和6年(1620年)10月23日没。法名仏性院殿天巌妙真大姉。葬地は亘理大雄寺。
- ^ 母は伊達晴宗の娘。佐竹義宣、蘆名義広、岩城常隆後室は兄弟。伊達晴宗の孫として貞隆・岩城御前の兄弟は、伊達政宗、伊達成実、岩城常隆とは従兄弟にあたる。また、岩城常隆とは佐竹義昭の孫としても従兄弟にあたる。
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