伊達宗清 (吉岡伊達家)
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長5年(1600年) |
死没 | 寛永11年7月22日(1634年8月15日) |
改名 | 権八郎(幼名)、宗清 |
墓所 | 宮城県黒川郡大和町吉岡の天皇寺 |
官位 | 河内守 |
主君 | 伊達政宗 |
藩 | 陸奥国仙台藩 |
氏族 | 伊達氏→飯坂氏→伊達氏 |
父母 |
伊達政宗、新造の方 飯坂宗康、飯坂の局[注 1] |
兄弟 |
秀宗、五郎八姫、忠宗、宗清、津多、 亘理宗根、宗泰、宗綱、宗信、宗高、 牟宇姫、竹松丸、宗実、岑姫、宗勝、 千菊姫 |
妻 | 留守宗利娘 |
子 | 飯坂定長(宗長) |
伊達 宗清(だて むねきよ)は、江戸時代前期の陸奥国仙台藩一門。陸奥国黒川郡吉岡城城主。吉岡伊達家は伊達氏庶流飯坂氏。
略歴
[編集]慶長5年(1600年)、伊達政宗の三男[1]として誕生した。慶長9年(1604年)に飯坂宗康の養嗣子となる。慶長15年(1610年)に11歳で元服し、後に伊達姓を賜り伊達河内守宗清と称した。黒川郡吉岡3万8千石を領し下草城に入り、元和元年(1615年)に吉岡要害の築城にかかり、翌年に吉岡要害に移った。
寛永11年(1634年)7月22日に死去した[1]。享年35。墓所は天皇寺にある。死去の際に大和田佐渡ほか13人が殉死した。
吉岡伊達家は無嗣断絶となったが、のちに桑折重長の子・定長(のち宗長)が再び飯坂姓で跡を継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 東京大学史料編纂所 1963, p. 56.