伊藤利夫
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岐阜県岐阜市 |
生年月日 | 1922年5月10日 |
没年月日 | 2011年7月20日(89歳没) |
身長 体重 |
170 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年 |
最終出場 | 1952年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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伊藤 利夫(いとう としお、1922年5月10日[1] - 2011年7月20日[2])は、岐阜県岐阜市生まれのプロ野球選手(外野手)、高校野球監督。
来歴
[編集]旧制岐阜中学校から早稲田大学第2高等学院に入学。1943年10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)では8番右翼で先発出場している。
早稲田大学卒業[3]後は、大日本土木で1946年と1947年の都市対抗野球大会連覇に貢献。
1950年、前年暮れに創設されたばかりの近鉄パールスへ入団しプロ入り。創設メンバーとして2年間で97試合に出場、打率.263、本塁打1本、打点23、盗塁9を記録していた[1]。1950年7月20日の対阪急ブレーブス戦では、阿部八郎に9回2死までノーヒットノーランに抑えられていたが、それを阻止する安打を放っている。1952年に阪急へ移籍し、同年引退。
翌1953年から母校である岐阜高校野球部で監督を務め、森昌彦らを率いて1954年の全国高校野球選手権大会と翌1955年の全国高校野球選抜大会に出場するが、いずれも1回戦敗退。
2011年7月20日、心不全のため岐阜市の病院で死去[2]。89歳没[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 近鉄 | 72 | 209 | 188 | 26 | 51 | 8 | 2 | 1 | 66 | 19 | 9 | 4 | 3 | -- | 16 | -- | 2 | 41 | 5 | .271 | .335 | .351 | .686 |
1951 | 25 | 26 | 25 | 2 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 4 | 0 | 2 | 1 | -- | 0 | -- | 0 | 1 | 0 | .200 | .230 | .200 | .430 | |
1952 | 阪急 | 23 | 23 | 20 | 3 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 3 | -- | 0 | 1 | 1 | .100 | .217 | .150 | .367 |
通算:3年 | 120 | 258 | 233 | 31 | 58 | 10 | 2 | 1 | 75 | 23 | 9 | 6 | 4 | -- | 19 | -- | 2 | 43 | 6 | .249 | .313 | .322 | .635 |
記録
[編集]- その他の記録
- 新人デビューからの連続試合安打:10(1950年)※加藤豪将と並び2リーグ制以降のプロ野球記録
背番号
[編集]- 23 (1950年 - 1951年)
- 25 (1952年)
脚注
[編集]- ^ a b 『さらば大阪近鉄バファローズ』(『週刊ベースボール別冊』2004年冬季号。ベースボール・マガジン社発行)
- ^ a b c 訃報 - 2011年7月 - 岐阜新聞Web
- ^ “個人年度別成績”. 2022年4月7日閲覧。
参考文献
[編集]- 日本野球機構『日本プロ野球記録大百科2004』(ベースボール・マガジン社、2004年)449頁 - 打撃成績
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 伊藤利夫 - NPB.jp 日本野球機構