伊藤乙次郎
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伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。
経歴
[編集]旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1886年12月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。
→詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 将校科1期」を参照
その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
日露戦争時は、台中丸乗組、佐世保鎮守府付、軍務局先任局員であった。「浅間」艦長、ドイツ大使館付武官などを経て、1911年12月、海軍少将に進級。水路部長、佐世保鎮守府参謀長、佐世保工廠長を歴任し、1915年12月、海軍中将となった。呉工廠長、技術本部長、将官会議議員を経て、1920年12月、予備役に編入された。後、神戸製鋼所社長、海防義会理事長に就任した。
1941年3月27日薨去。享年76歳。墓所は青山霊園1-イ-20-2。戒名は顕達院殿釈温存大居士。宗教は仏教(浄土真宗)。
栄典
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)6月2日 - 正八位[1]
- 1892年(明治25年)3月23日 - 正七位[2]
- 1897年(明治30年)5月31日 - 従六位[3]
- 1900年(明治33年)12月5日 - 正六位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 従五位[5]
- 1910年(明治43年)3月22日 - 正五位[6]
- 1915年(大正4年)4月20日 - 従四位[7]
- 1920年(大正9年)12月20日 - 従三位[8]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[9]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[10]
- 1897年(明治30年)12月15日 - 恩賜銀時計
- 1915年(大正4年)11月1日 - 勲二等瑞宝章[11]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章[12]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第2379号「叙任及辞令」1891年6月6日。
- ^ 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第5230号「叙任及辞令」1900年12月6日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第813号「叙任及辞令」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第2517号「叙任及辞令」1920年12月21日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3866号・付録「辞令」1896年5月21日。
- ^ 『官報』第979号「叙任及辞令」1915年11月4日。
- ^ 『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。