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伊能文書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊能文書(いのうもんじょ)は、下総国佐原(現香取市)の伊能家が収集・伝来した古文書『伊能茂左衛門家文書』(国立歴史民俗博物館所蔵)の通称である。同家出身者には国学者楫取魚彦、親族に測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)などがいる。

中でも武田信玄朝倉義景に送った元亀3年12月28日1573年1月31日)付の書状内容などを記した文書が著名であり、特にこの文書を指して呼ばれることが多い。

織田信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を信玄が非難している。

内容

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以使僧承候条、得其意候、仍二俣之普請出來候間、向三州陣之砌、家康出入数候之条、去廿二日当国於見方原逐一戦、得勝利、三遠両国之凶徒并岐阜之加勢衆千余人討捕、達本意候間、可御心易候、

又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候、各労兵勿論候

雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、不可過御分別候、猶附與彼口上候、恐々謹言

拾弐月廿八日    信玄  花押

謹上  朝倉左衛門督殿

使いの僧より話は伺った。二俣城の普請中に、徳川家康勢と交戦、去る22日三方ヶ原の戦いで勝利し、三河・遠江両国の軍勢と織田方の加勢1,000余りを討ち取り、本意を達したのでご安心いただきたい。

人づてに聞いたのだが、貴公の兵の大半が戦線を離れて帰国したことにびっくりしている。兵をいたわるのは当然だが、織田信長を滅亡に追い込める好機が到来した時に、そのような寛容な備えでいても、労あるのみで功などはない。

判断を誤ることなかれ。なお、使者に口上を与えたのでそちらも聞いていただきたい。恐々謹言。