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伊沢修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊沢 修
基本情報
出身地 日本の旗 日本 和歌山県
生年月日 1932年3月1日
没年月日 (1989-09-14) 1989年9月14日(57歳没)
身長
体重
168 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1950年
初出場 1951年3月30日
最終出場 1953年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

伊沢 修(いざわ おさむ、1932年3月1日 - 1989年9月14日[1])は和歌山県[1]出身のプロ野球選手である。一時期は、西村 修(にしむら おさむ)と名乗っていた。

来歴・人物

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海草中学(現:向陽高校)で、1947年夏の甲子園に出場。チームは1試合で敗退した。その後、1948年に西村家の養子になり、西村 修に改姓し、桐蔭高校に転校した。この年も夏の甲子園に出場。この大会では、エースとしてチームを引っ張る。決勝戦では、押し出し死球による1失点のみに抑え完投するも、チームが小倉のエース・福嶋一雄を打ち崩せず、準優勝であった[1]。また、大会で出た本塁打4本の内1本を放っている。翌1949年春の甲子園に出場、準々決勝で敗退した[1]

1950年大阪タイガースに入団[1]1951年3月30日の対松竹戦(後楽園)で一軍初登板・初先発し、初勝利を挙げる[2][3]。タイガースの高卒選手がプロ初登板・初先発で初勝利を挙げたのは、藤村富美男武智修に続く3人目の快挙であった[3]。ちなみにこの記録は西村の後、2012年岩本輝が記録するまで実に61年間も記録されることが無かった[3]。この年は4勝を挙げる。しかし1952年に故障し、翌1953年外野手に転向した。また、この年に伊沢 修に苗字を戻す。しかし、僅か3試合の出場にとどまり退団した。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1951 阪神 14 9 3 1 0 4 3 -- -- .571 274 68.1 52 1 30 -- 1 19 2 0 24 18 1.04 1.20
1952 10 2 0 0 0 0 2 -- -- .000 55 11.2 13 1 8 -- 1 2 0 0 9 7 18.75 1.80
通算:2年 24 11 3 1 0 4 5 -- -- .444 329 80.0 65 2 38 -- 2 21 2 0 33 25 3.71 1.29

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1951 阪神 15 26 22 2 1 0 0 0 1 0 0 0 1 -- 1 -- 2 10 1 .045 .160 .045 .205
1952 11 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 -- 0 -- 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1953 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:3年 29 28 23 2 1 0 0 0 1 0 0 0 2 -- 1 -- 2 10 1 .043 .154 .043 .197

記録

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背番号

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  • 46(1950年)
  • 9(1951年 - 1953年)

登録名

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  • 西村 修(1950年 - 1952年)
  • 伊沢 修(1953年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、420ページ
  2. ^ 1951年タイガース試合結果”. げんまつWEB. 2012年9月27日閲覧。
  3. ^ a b c “岩本、高卒61年ぶり初登板初先発初星”. デイリースポーツ. (2012年9月10日). http://www.daily.co.jp/tigers/2012/09/10/0005366884.shtml 2012年9月27日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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