伊東寿恵男
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伊東 寿恵男(いとう すえお、1912年(明治45年)4月9日[1] - 2005年)は、日本の映画監督、記録映画作家。
長崎県諫早市出身。京都帝国大学文学部卒[1]。東宝文化映画部で文化映画を監督。泰緬鉄道の記録映画[2]や広島・長崎の原爆記録映画を監督。戦後は、児童劇映画の名作といわれる『空気の無くなる日』(文部省選定)を監督した。伊東壽惠男の表記もある。戦後は井上姓となり長崎市教育長などを務めた。本名は「井上寿恵男」。詩人の伊東静雄は兄[2]。
経歴
[編集]- 1935年(昭和10年)、第一映画社入社、助監督を務める。[1]
- 1937年、 P. C. L. (写真化学研究所)記録映画演出部に転じ、合併により東宝文化映画部へ移籍。[1]
- 1939年10月、東宝文化映画部で『山と戦う』(撮影=玉井正夫、柳恵蔵)を監督。
- 1940年2月、東宝文化映画部で『登高三千米』(撮影=玉井正夫、柳恵蔵)同年5月、『医者のいない村』(撮影=白井茂)、同年11月、『天気予報』(撮影=白井茂)を監督[3]。
- 1941年、社団法人日本ニュース社が東宝文化映画部を他の文化映画製作各社とともに吸収。社団法人日本映画社へ改組したため、同社に移籍。同年11月、『働く少年少女』(撮影=瀬川順一)を監督。泰緬鉄道建設の記録映画を製作[3]。
- 1945年9月7日、日本映画社から長崎県出身者として、単独で、原爆投下後の広島・長崎へ向けて派遣される。広島県庁を訪れ、近々製作スタッフの一行が広島にやってくることを伝達した[4]。加納竜一製作、相原秀次企画調査による「広島・長崎における原子爆弾の効果」(山中真男、三木茂、鈴木喜代治、俣野公男、坂齋小一郎、藤波次郎、今野敬一撮影)の演出を、小畑長蔵、奥山大六郎、山中真男、相原秀二とともに担当した。20日間のロケーション。
- 1946年、「広島・長崎における原子爆弾の効果」(Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki 広島長崎における原子爆弾の影響)完成。米軍の没収を避けるため、フィルムの一部を秘匿することになり、秘匿分の選択を行う[5]。
- 1947年、柳沢寿男とともに北海道美唄炭鉱に長期ロケした『炭坑』(加納竜一製作、33分)を監督。
- 1949年、『空気の無くなる日』を監督。
- 1950年代は本名の井上寿恵男で長崎市の社会教育課長などを務めた。[6]
- 1964年、長崎市教育委員会教育長に就任[7][8]
- 1972年、同教育長退任[7]
- 1994年(平成6年)、『映画への思い出』(井上壽惠男名義)出版[2]。
- 1995年、『地方公務員の頃の思い出』(井上壽惠男名義)出版[9]
出典
[編集]- ^ a b c d 『日本の映画人: 日本映画の創造者たち』佐藤忠男、日外アソシエーツ, 2007、61ページ
- ^ a b c 井上寿恵男さん 山本皓造
- ^ a b 旧東宝映画非劇映画作品リスト
- ^ [原爆被災記録映画の製作へ 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム]
- ^ ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平 Ⅲ 占領下の民主化と短編映像——文化映画から新しい教育映画へ(承前)2 戦後短編映画業界の形成——経験者たちと新しいプレーヤーの出会い
- ^ 『職員錄』大蔵省印刷局、1956、p131
- ^ a b 『長崎市年表』長崎市史年表編さん委員会、1981、p295
- ^ 語り継ごう「ねずみ島」のこころを長崎游泳協会
- ^ 地方公務員の頃の思い出