仙石秀範
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 没年不詳 |
改名 | 秀範、宗也斎(号) |
別名 | 久倫、権兵衛(通称) |
官位 | 従五位下・ 豊前守 |
主君 | 豊臣秀頼 |
氏族 | 仙石氏 |
父母 |
父:仙石秀久 母:本陽院(野々村幸成の娘) |
兄弟 | 久忠、秀範、忠政、政能、政直、久隆 |
子 | 長太郎、徳 |
仙石 秀範(せんごく ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。仙石秀久の次男。官位は従五位下・豊前守。名は久倫とも。
生涯
[編集]仙石秀久の次男として生まれる。母は野々村幸成の娘(本陽院)。慶長4年(1599年)、豊臣家から3000石を与えられて従五位下・豊前守に叙任された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、東軍に与した父から廃嫡された上に勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の師匠を務めていたという。
慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まると、弟の仙石忠政が徳川方に与したのと異なり、豊臣方として大坂城に入って戦った。このとき、豊臣家から大名衆として3万石前後の所領を与えられている。しかし翌年の夏の陣で豊臣氏の敗北が決定的となると、丹波に逃亡した。その後の秀範の行方は不明である。夏の陣で討死したともいわれている。
ただし、10歳になる息子長太郎は伯耆で捕らえられ、夏の陣後の閏6月22日に六条河原で乳母の子供と共に斬られ、晒し首にされた。ほかに徳という女子がおり、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年(1635年)に没した。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第306」