今泉口八幡山古墳
今泉口八幡山古墳 | |
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墳丘遠景(左に前方部、右に後円部) | |
別名 | 毛里田村12号墳 |
所属 | 菅ノ沢古墳群 |
所在地 | 群馬県太田市東今泉町2179(字今泉口) |
位置 | 北緯36度19分46.10秒 東経139度22分40.90秒 / 北緯36.3294722度 東経139.3780278度座標: 北緯36度19分46.10秒 東経139度22分40.90秒 / 北緯36.3294722度 東経139.3780278度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長60m |
埋葬施設 | 横穴式石室(内部に家形石棺) |
出土品 | 耳環・直刀・短刀・鐔・鉄鏃・筒形銀銅製品・コイル状金銅製品・須恵器・埴輪 |
築造時期 | 6世紀末 |
史跡 | なし |
地図 |
今泉口八幡山古墳(いまいずみぐちはちまんやまこふん)は、群馬県太田市東今泉町にある古墳。形状は前方後円墳。菅ノ沢古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。
概要
[編集]群馬県東部、金山丘陵北側の一支丘の南斜面に築造された古墳である。一帯に分布する菅ノ沢古墳群のうちでは北端部に位置し、北には菅ノ沢御廟古墳が所在する[1]。これまでに墳丘・石室は大きく破壊されているほか、1994・1995年度(平成6・7年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方部が発達した前方後円形で、前方部を西方向に向ける[2]。墳丘外表では、円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(人物形・馬形・家形・盾形埴輪など)が検出されている(北金井駒形神社埴輪窯跡群から供給か)[1]。墳丘周囲では、後円部北側で幅2.5メートル・深さ1メートルの周溝が認められる[1]。埋葬施設は後円部における横穴式石室で、南方向に開口する。石室全長10メートルにおよぶ大型石室で、石室内には家形石棺が据えられる。石室内は盗掘に遭っているが、調査では石棺内から耳環が、石棺外から直刀・短刀・鐔・鉄鏃・筒形銀銅製品・コイル状金銅製品・須恵器が検出されている。築造時期は古墳時代後期の6世紀末頃と推定される[3][1]。
遺跡歴
[編集]- 元文3年(1738年)の『新田金山石棺御尋聞書』に記述[1]。
- 1938年(昭和13年)の『上毛古墳綜覧』に「毛里田村第12号墳」として登載。
- 1994・1995年度(平成6・7年度)、急傾斜地崩壊対策関連事業の擁壁工事に伴う古墳南側の発掘調査(太田市教育委員会、1996年に報告書刊行)。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[1]。
- 墳丘長:推定復元60メートル
- 後円部 直径:推定復元29メートル
- 前方部 幅:推定復元50メートル
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては後円部において横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]。
- 玄室:長さ5.7メートル、幅2.2メートル、高さ2.4メートル
- 羨道:長さ4.8メートル、幅1.3メートル
石室の石材は、チャート・金山石(溶結凝灰岩)である[3]。石室の奥石と天井石の間には白土塗彩の痕跡が認められる[1]。
石室内には安山岩製の家形石棺が据えられる。石棺主軸は、石室主軸に直交する東西方向である。石棺の蓋部は長さ1.91メートル・幅1.05メートル・高さ0.45メートル、身部は長さ1.85メートル・幅0.97メートル・高さ0.54メートルを測る[1]。石棺の蓋石は、羨道側にのみ縄掛突起2ヶ所を付す[1]。
石室内の副葬品として、棺内からは金銅製耳環2のみが、玄室内埋土からは直刀・短刀・鐔・鉄鏃・須恵器(高坏・𤭯)が、羨道部床面からは筒形銀銅製品・コイル状金銅製品が検出されている[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 「今泉口八幡山古墳」『太田市史 通史編 原始古代』太田市、1996年。
- 宮田毅「八幡山古墳 > 今泉口八幡山古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『今泉口八幡山古墳発掘調査報告書 -今泉口急傾斜地崩壊対策事業に伴う埋蔵文化財発掘調査-』太田市教育委員会、1996年。
- 『今泉口八幡山古墳』太田市教育委員会、1997年。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、今泉口八幡山古墳に関するカテゴリがあります。