今井繁三郎
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今井 繁三郎(いまい しげさぶろう、明治43年(1910年)2月7日 - 平成14年(2002年)1月9日)は、日本の画家。羽黒町名誉町民(現:鶴岡市名誉市民)。
人物
[編集]旧制鶴岡中学(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業後、上京。創作に励む傍ら、美術雑誌の編集長を務める。また太平洋戦争の最中には、従軍画家として諸国を巡った[1]。 戦後、帰郷。美術団体「白甕社(はくおうしゃ)」の代表を長年務め、庄内の芸術振興や後身の指導に尽力した。
具象、抽象を織り交ぜた奔放な画風で知られ、晩年まで旺盛に創作を続けた[2]。
1990年に鶴岡市山王町にあった豪商の土蔵を買い取り、自作を常設展示する今井繁三郎美術収蔵館を自宅庭に開館した。同館は2014年に老朽化のため休館したが[2]、2016年春に羽黒・芸術の森-今井アートギャラリーとして再開した。また今井の親族が山形新聞社のクラウドファンディング「山形サポート」で資金を募り、今井のアトリエだった「工房いずみの」を改装。貸しアトリエとの併用施設として、レストラン「oven Kato(オーブンカトウ)」を2018年6月14日に開業した[3]。
略歴
[編集]- 1910年2月7日、山形県東田川郡羽黒町(旧泉村)戸野に生まれる。
- 1927年
- 1930年、尾口勇に油絵の古典技法を学ぶ。
- 1936年、鷲田新太の誘いにより美之国社に入社。美術雑誌「美之国」の編集に携わる。
- 1937年、自由美術家協会創立に参加。
- 1941年
- 1942年
- 1943年、銀座村松画廊にて「海南島風物画展」開催。
- 1945年、敗戦、東京を離れて郷里に帰り、山野を拓いて家族と共に住み、7年間ランプ生活を体験する。
- 1946年、日動画廊にて旧自由美術家協会の会員展を開催。
- 1947年、毎日新聞主催美術団体連合展を東京都美術館で開催。
- 1956年、山形県美術連盟運営委員長に就任。
- 1957年、白甕社委員長に就任。
- 1964年10月、欧州に赴き、パリに滞在する。
- 1976年、美術団体「光陽会」の委員となる。
- 1979年11月、齋藤茂吉文化賞受賞[4]。
- 1981年、委員長を務める白甕社がサントリー地域文化賞を受賞[5]。
- 1983年5月、光陽会文部大臣奨励賞受賞。
- 1989年、美術団体「光陽会」の委員長に就任。
- 1990年、羽黒町泉野の自宅庭に今井繁三郎美術収蔵館を設立。
- 1996年11月、鶴岡市特別文化功績賞を受賞。
- 1998年11月 長崎県立美術博物館にて回顧展開催。
- 1999年10月、O美術館(東京都)にて90歳展開催。
- 2000年、山形美術館にて2000年記念展を開催。アート・CON(混)結成、文藝春秋画廊にて開催。
- 2001年、 羽黒町名誉町民となる。
- 2002年1月9日、死去。享年91
受賞歴
[編集]- 齋藤茂吉文化賞
- 光陽会文部大臣奨励賞
- 鶴岡市特別文化功績賞
主な作品
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著書
[編集]- 『雑言 : 随筆集』東北出版企画、1979年。
- 『今井繁三郎画集』東北出版企画、1980年。
- 『今井繁三郎画集Ⅱ 第2集1980-1988』 東北出版企画、1988年。
挿絵
[編集]脚注
[編集]- ^ 「今井繁三郎氏死去 自由奔放な画風、洋画家・羽黒町名誉町民」『朝日新聞』山形版 2002年1月11日
- ^ a b 「今井繁三郎美術収蔵館、休館へ 遺族が私費運営 維持困難に」『朝日新聞』山形版 2014年9月22日
- ^ “アトリエ改装のレストランがオープン 鶴岡「羽黒・芸術の森」”. 山形新聞. (2018年6月15日) 2018年6月20日閲覧。
- ^ “齋藤茂吉文化賞受賞者21-30回”. 山形県 2018年4月14日閲覧。
- ^ “白甕社 大正年間からの美術団体。息の長い安定した活動で地域文化の中核的存在として活躍”. サントリー文化財団. (1999年11月) 2018年4月14日閲覧。
外部リンク
[編集]- 羽黒・芸術の森-今井アートギャラリー
- 羽黒・芸術の森 今井アートギャラリー - 山形県鶴岡市観光連盟