今井信俊
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永2年(1522年) |
死没 | 文禄4年(1595年) |
改名 | 高尾信俊 |
別名 | 九兵衛、勝利、昌義 |
戒名 | 釣冷 |
主君 | 武田信玄→武田勝頼→徳川家康 |
氏族 | 清和源氏甲斐武田氏支流今井氏 |
父母 | 父:今井信昌(刑部左衛門) |
子 | 今井勝澄、今井昌俊(高尾昌俊)、朝比奈昌親 |
今井 信俊(いまい のぶとし)は、甲斐武田家に仕えた武将。使番十二人衆を経て足軽大将衆足軽10人持ちとなる。武田家滅亡後は徳川家康のもとで駿河田中城の城代を務めた。文禄4年(1595年)に74歳で死去。子は今井昌俊(高尾氏が武田勝頼に従って殉じた為、徳川家康より命じられ高尾昌俊と称した)。孫は高尾嘉文で、一時罷免されたが、大坂冬の陣にて戦功を上げて甲州八代郡内の本領を与えられ、以降、高尾氏を称して徳川旗本となる。
生涯
[編集]甲斐今井氏は、甲斐武田氏第13代当主武田信満の五男であり、甲斐武田氏第14代守護武田信重の弟である武田信景が、甲斐今井氏始祖今井左馬守信景[1]で、山梨県甲府市上今井町[2]に住み地名を氏号としたことに始まる。甲府市上今井町の大龍山冨春院[3]には墓碑と墓誌がある。甲斐今井氏第2代今井今井兵庫助信経、第3代今井兵庫助信慶、第4代今井兵庫助信是の墓誌もある。第5代今井山城守信隣、第6代今井刑部左衛門信昌、第7代九兵衛信俊の墓碑は不明である。
甲斐今井氏第7代今井九兵衛信俊[4][5]は、甲斐今井氏第6代今井信昌[4]の息子で、武田信虎・武田信玄・武田勝頼の三代に仕え鉄砲大将となり田中城の城代を務め、合戦で数度の高名をあげた。武田氏滅亡後は徳川家康に仕えた[6]。永禄11年(1568年)12月の信玄の駿河侵攻に従軍、永禄13年(1570年)1月の花澤城、徳一色城侵攻にも従い戦功をあげている。元亀元年(1570年)築城された田中城の城番として城代山県昌景らとともに在城した。九兵衛信俊には三子があった。一人は駿河今井家の祖七兵衛門勝澄、一人は惣十郎昌俊、一人は朝比奈昌是の養子となった昌親(寛政譜一)である[7]。信玄没後は武田勝頼に仕えたが、「天目山の戦い」に敗れ、勝頼没後は、徳川家に仕えた。田中城開城後、武田氏の武将は三つの道を選んだ、勝頼と天目山を目指し討死した者、織田信長の追っ手に殺害された者、徳川家に仕えた者である。今井信俊は高尾信俊と名乗り、難を逃れて徳川家に仕えた。高尾姓は息子の昌俊の養子先の姓である[6]。徳川家康は、信長に殺害させないよう婦女子も逃した。
今井左馬助信景
系図安芸守信満ノ男小瀬信堅ニハ兄ニテ今井村ニ宅蹟存セリ小瀬今井二村ハ程近シ一蓮寺過去帳ヲ合校スルニ文明五年十一月廿六日合戦討死獨阿今井又八郎アリ即信景相当ヘシ其男兵庫助信経延徳二年九月十七日澄阿今井兵庫殿信経男二人兄大蔵大輔信又一人明応三年三月廿六日討死眼阿大蔵大輔殿弟八郎信慶延徳二年三月廿八日巌阿今井八郎殿是ナリ八郎男ハ兵庫信是ト云信又男三人(中略)八郎信慶男兵庫信定云云男山城守信隣云々男刑部左衛門信昌其男九兵衛信俊一作勝利トアリ九兵衛昌義、下郷起請文ニ花押アリ軍鑑使番十二人衆ヨリ足軽隊将トナル騎馬足軽拾人、系図云壬午時召出サレ駿州田中城代トナル後甲州ニ帰ス文禄四年死七十四法名釣冷、其男七右衛門勝澄ハ丹羽勘介ニ属し長久手ノ役ニ岩崎ニ籠リ弟次郎三郎等十七人共戦死スト云云
— 『甲斐国志 廿四』松平定能編 第98巻人物部第7 武田氏将師之部 明治15年10月23日 抜粋
今井信俊の長男甲斐今井氏第8代今井七右衛門勝澄[4][8]は、武田信玄に仕え、使番十二人の内の一人であった。使番の旗印として、青地に金で画いた百足の絵柄の旗指物を背に指した[9]。天正12年(1584年)3-11月の長久手の戦いの前哨戦・同年4月8日の岩崎城の戦い[10]で討ち死にした。岩崎城は落城したが、徳川・織田軍との戦いで勝利に導いた。愛知県日進市岩崎町の岩崎城址公園の「表忠義碑」[11]には、今井七右衛門勝澄の刻名がある。愛知県長久手市岩作には首塚がある。この戦いのとき、敵八、九人を討ち取るなどの奮戦の末、討ち死にした[9]。「四戦記聞」によると、首実検の模様について、今井勝澄の首を扇の上に厚紙を敷いて載せ、恒興は其の外の首級と共に実験し、「事始めよし」と勇み誇っていたという[12]。また勝澄の子、勘解由左衛門・五郎右衛門・半右衛門・十郎右衛門などは、のち福島正則に仕えた[9]。武田氏滅亡後、徳川家に仕えた信俊は、勝澄をどこに逃がしたかは不明だが、岩崎城主丹羽勘助氏次のもとにいた。勝澄以後、駿河今井家は、勝澄の妻子が尾州古渡に逃れて名主稲村喜助の後妻となり、子どもが成長したあと今井半衛門を名乗ったという[7]。その後、徳川二代将軍秀忠に仕え、元和9年(1623年)に大番頭松平勝政組に取り立てられて扶持二百石を頂いている[7]。寛永9年(1632年)駿府に移り、定番与力として以後、二十代も徳川家に仕えた。駿河今井氏始祖代今井勝澄と第2代半衛門、第3代市兵衛、第4代市兵衛、第5代嘉一郎、第6代松宇、第7代丹下、第8代桂輔、第9代松宇、第10代正意、第11代鎌太郎、第12代桂の位牌と墓碑が静岡県静岡市葵区沓谷の大森山長源院にある[7]。
脚注
[編集]- ^ 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、十一、第43巻、古跡部第6、山梨郡那賀郡筋、3頁、「今井肥後守墓 上今井村」
- ^ 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、四、第11巻、村里部第9、巨摩郡北山筋、9頁、「上今井村」
- ^ 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、十八、第78巻、仏寺部第6、山梨郡中郡筋、4頁、「大龍山冨春院 上今井村」
- ^ a b c 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、廿四、第98巻、人物部第7、武田氏将師之部、9頁、「今井左馬助信景」
- ^ 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、廿四、第99巻、人物部第8、武田氏令史之部、2頁、「旗本武者奉行」「使番十二人」
- ^ a b 『藤枝市史』藤枝市、中世の藤枝、653-654頁、「戦国の動乱と藤枝」「田中城攻防戦に関わった諸士」
- ^ a b c d 『大森山長源院誌』村松圭三著、大森山長源院、146-152頁、「歴史を語る歴代の墓塔」「今井家墓地」
- ^ 『日本歴史文庫』四戦記聞四、集分館、135-137頁、「尾州長久手戦記」
- ^ a b c 『岩崎城の戦』武田茂敬著、80-86頁、「岩崎城の合戦」「両軍の戦闘」
- ^ 『日本戦史』参謀本部第四部編纂、小牧没、北畠及徳川と羽柴との関係、10-11頁、「将士表 東軍(北畠)」
- ^ 『愛知県史跡名勝天然記念物調査報告書 第六』愛知県、37-38頁、「岩崎城址」「天正12年4月9日岩崎城戦死人名」「表忠義」
- ^ 『岩崎城の戦』武田茂敬著、97-99頁、「岩崎城の合戦」「岩崎城の落城」
参考文献
[編集]- 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、四、第11巻、村里部第9、巨摩郡北山筋、9頁、「上今井村」、明治15-17、温故堂、2014年3月29日閲覧
- 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、十一、第43巻、古跡部第6、山梨郡那賀郡筋、3頁、「今井肥後守墓 上今井村」、明治15-17、温故堂、2014年3月29日閲覧
- 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、十八、第78巻、仏寺部第6、山梨郡中郡筋、4頁、「大龍山冨春院 上今井村」、明治15-17、温故堂、2014年3月29日閲覧
- 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、廿四、第98巻、人物部第7、武田氏将師之部、8-9頁、「今井左馬助信景」、明治15-17年、温故堂、2014年3月29日閲覧
- 『甲斐國志』松平定能編、小野泉校、廿四、第99巻、人物部第8、武田氏令史之部、2頁、「旗本武者奉行」「使番十二人」、明治15-17年、温故堂、2014年3月29日閲覧
- 『日本歴史文庫』三宅米吉、萩野由之、辻善之助、四戦記聞、135-137頁、「尾州長久手戦記」、2014年4月5日閲覧
- 『愛知県史跡名勝天然記念物調査報告書 第六』愛知県、37-38頁、「岩崎城址」「天正12年4月9日岩崎城戦死人名」「表忠義」、昭和3年3月、成弘社、2014年2月6日閲覧
- 『大森山長源院誌』村松圭三著、大森山長源院、146-152頁、「歴史を語る歴代の墓塔」「今井家墓地」、平成5年8月、長田文化堂、2014年2月6日閲覧
- 『藤枝市史』藤枝市、中世の藤枝、653-654頁、「戦国の動乱と藤枝」「田中城攻防戦に関わった諸士」、2014年4月5日閲覧
- 『日本戦史』参謀本部第四部編纂、小牧没、北畠及徳川と羽柴との関係、10-11頁、「将士表 東軍(北畠)」、明治41年10月15日、元眞社、2014年4月5日閲覧
- 『岩崎城の戦』武田茂敬著、80-86頁、「岩崎城の合戦」「両軍の戦闘」昭和56年9月20日、日進市教育委員会、2014年2月13日閲覧
- 『岩崎城の戦』武田茂敬著、97-99頁、「岩崎城の合戦」「岩崎城の落城」昭和56年9月20日、日進市教育委員会、2014年2月13日閲覧